「希望の系譜」
2010年7月25日 礼拝に備えて
歴代誌第一 3章1〜9節
おはようございます。新しい朝に感謝して心から主を礼拝しましょう。
今朝はT歴代誌の系図の中からダビデ以降に目を向けます。補囚後の民にとってダビデは特別な存在でした。やがて来る救い主の型として、王であり祭司でもあるダビデは、民に希望をもたらす存在でした。
3章ではダビデの子供たちの名前が長々と記されてあります。約束された家系がどのように受け継がれていったのかをこれらの系図から読み取ることができます。
また、3章の後半部分にでてくる「捕らわれ人エコヌヤ」(エホヤキンとも呼ばれるユダの王)の存在もダビデの子孫が守られていることを物語っています。
ダビデによる統一王国が見事に分裂し、バビロン補囚を終えて、帰還した民が祖国再建へと取り組んでいく時代の系図が3章には記されてあります。
この系図から今の私たちが学ぶべきことは何なのか?を共に考えていきましょう。
自分にとって大きな壁が目の前に立ちはだかった時に、どのようにして前進していくのかをこの系図は教えてくれます。主を信じる者として、その真理を覚えて祝福の人生を歩んでいきましょう。
− H.K.−
「すべての人に注がれる霊」
2010年7月18日 礼拝に備えて
使徒の働き 2章14〜36節
夏休みのシーズンとなりました。私たちの教団では、今夏も多くのバイブルキャンプ(宿泊しての聖書を学ぶ集い)が予定されています。祝福のためにお祈りください。キャンプの恵みは、何と言っても、日常の歩みから一歩退いて、神様の造られた自然の中に身を置き、静まって主の御言葉に聴き入ることでしょう。
本日の聖書箇所にも、聖書のメッセージに大勢の人々が耳を傾けたことが記されています。これは使徒ペテロによってなされた、キリスト教会最初の説教でした。後の箇所に見られるように、聴衆の数は3000人以上にのぼりました。というのも聖霊降臨という歴史的事件を体験したからです。このことがどれほどの驚きをもたらしたかは、「驚きあきれてしまった」(6節)、「驚き怪しんで」(7節)、「驚き惑って」(12節)と3回も同様な表現が用いられていることでわかります。
ペテロは旧約聖書のヨエル書2章と、詩篇16篇および110篇を引用して、聖書の講解説教をしました。内容は、大まかに言って、2つのことです。前半が、聖霊が注がれたこの出来事の説明であり、後半がどうしたらその聖霊の注ぎが受けられるのかの説明です。以下にアウトラインを示します。
1. 聖霊の注ぎは、旧約預言の成就であり、終末時代のしるしです(14〜21節)。
2. 聖霊の注ぎは、イエスというお方をキリストとして信じる人々に与えられます(22〜36節)。
− M.F.−
「聖霊来れり」
2010年7月11日 礼拝に備えて
使徒の働き 2章1〜13節
「突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」
使徒の働きの2章冒頭は、何かとてつもないことがエルサレムで起こったことを伝えています。言うまでもなく、これがペンテコステの事件です。言葉で表現することに限界を感じさせるような出来事として、聖霊が歴史的に降臨されたことを伝えているのです。
ペンテコステとは、ギリシア語で「五十番目」の意味で、過越祭の安息日の翌日から満七週を数えたその翌日、すなわち五十日目に行なわれる祭(レビ23:15〜16、出エジプト34:22)に由来し、七週の祭と呼ばれていました。
本日の聖書箇所を詳細に見ると、「満ちる」という表現が多用されていることに気づきます。
1、「五旬節の日が満ちて」(1節)(欄外注別訳)。この言葉で、この決定的な出来事が前もって神がご計画され、約束されていた日であったことが示されます。
2、「(響きが)家全体に満ちた」(2節)(私訳)。 三位一体の第三位格であられる聖霊は、力強くそのご臨在を表されました。教会全体にこの方が力強く働かれることを明らかにしました。
3、「みなが聖霊に満たされ」(4節)。聖霊に満たされることで、彼らは「神の大きなみわざ」(11節)を大胆に、多くの言語で語り出しました。神の世界宣教計画がいよいよ動き出したのです。
− M.F.−
「近づく終わりの日」
2010年7月4日 礼拝に備えて
マタイの福音書 24章1〜14節
イエス・キリストは当時のユダヤ人指導者に対して、まことに厳しいことばを語り、イエスがメシヤであることを否定し、不信に陥った彼らとイスラエルに神の大きな裁きが下ることを預言し、「あなたがたの家は荒れ果てたままに残される」(マタイ23:38)と言われました。この主のことばは弟子たちの心に深く残り、彼らが見ている壮麗な宮はいったいどうなるのだろうという問いを持つようになりました。それに対して主は、宮が徹底的に破壊されることを告げました(マタイ24:1〜2)。これを聞いた弟子たちは、その関連でキリストの再臨の時期と世の終わりの時の前兆を尋ねました(24:3)。
キリストの答えとして記されているマタイ24:4〜25:46の「キリストの終末講話」は、どのように理解すればよいのでしょうか。次の諸点をこころにしっかり受け止めて読むとよいでしょう。
(1) このキリストのことばは、今の時代に生きるクリスチャンである私たちに直接語られていると理解すべきです。講話の後半部分(24:32〜)は前半(24:4〜31)の歴史的記述部分の適用となっています。キリスト自身が「これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(24:33)と語っておられます。キリストの再臨は私たちにとってなお未来のことです。
(2) 24:4〜31の歴史的記述部分は、厳密な時間順序として読むというよりは、終わりの状態が三つの視点から重なり合わせるように記されている文学的手法を認めて読む必要があります。24:4〜14; 24:15〜28; 24:29〜31 の三つの視点です。
24:4〜14においては、@一般的前兆(4〜8節)Aクリスチャンへの厳しい迫害(9〜12節)B福音の全世界への宣教(13,14節)が記されています。
− T.M.−
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