Back to home page   日本メノナイトブレザレン教団 石橋キリスト教会
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黙想


「敵を愛せよ」

2012年1月15日 礼拝に備えて

マタイの福音書 5章43〜48節

 「敵」とは誰でしょうか?自分の仲間でない者,自分に不利益をもたらす者であり,滅びても良いと思える人々のことでしょう。それは個人的・感情的な問題にとどまりません。人間社会はその円滑な運営のために秩序が必要で,その秩序のために様々なルール・慣習・価値観が作られます。しかし,時にそのルールが人間関係の壁となり,人間関係を破壊します。現実には性別,年齢,人種、民族、言語,学歴,宗教,地域,経済力,共同体意識などによってこの社会が秩序立てられていますが,それが人間の優劣を生み出してしまうことがあります。自分が属するルールや価値観に合わないがゆえに,互い排除し合うことは少なくありません(自分とは違うから危険である,ゆえに邪魔である,あるいは劣っている)。そこでは,互いが互いをある価値観(偏見)によって見てしまい,そこに生きている人が見えなくなってしまうのです。イエスはそのような人を人としないことに対して抗議をします。自分とは違う考えを持つ人かもしれないが,そこには生きた人がいる。そこに人がいるからその人を大切にし,尊重し,優先的に関わりを持ちなさい,それが敵を愛することの意味です。愛とは好意の感情ではなく,相手を人として大切にすることです。滅びて良い人は誰もいないし,ましてや私が滅ぼして良い人など誰もいません。敵を愛することは人間の自然の感情に任せてはできないことです。イエスの言葉に信頼し,その言葉がどのように私に社会に生きるのかを求めなければなりません。

− H.M.−


「聖霊を受けましたか」

2012年1月8日 礼拝に備えて

使徒の働き 19章1〜7節

 「聖霊を受けましたか」という使徒パウロの質問は、今日の時代に生きる一人ひとりにも語りかけられている言葉です。

 しかし、その問いかけそのものについて考える前に、確認しておきたいことをまずお話しします。

 この聖書箇所の「聖霊を受けましたか」は、クリスチャンになってから後に、聖霊を受けるようにということを意味しては、いないということです。新約聖書は一貫して、キリストを救い主として信じると同時に聖霊を受けることが示されています(19:2「信じたとき」)。逆に言えば聖霊を受けていないでクリスチャンである可能性を新約聖書は認めていません(ローマ8:9、Tコリ12:3等)。

 さてそれらのことを前提に、この聖書箇所が語る「聖霊を受けましたか」が問うていることを見ていきましょう。

1. 「聖霊を受けましたか」とは、あなたは主イエスを信じていますか、ということです。エペソにいた12人の人たちは、信仰理解が不十分な状態でした。聖霊の存在を知らず、主イエスの御名でバプテスマを受けてもいなかったのです。あなたは主イエスを信じて聖霊をうちにいただいていますか。

2. 「聖霊を受けましたか」とは、あなたは聖霊を受けた者としての自覚や実感をもって歩んでいますか、ということです。当時の異言や預言の現象の背景には、迫害のある状況にかかわらず彼らが神からのみ与えられる内なる歓喜と満たしをいただいていたことのしるしとなったのです。

− M.F.−


「霊的刷新」

2012年1月1日 礼拝に備えて

ローマ人への手紙 12章1〜2節

 新年あけましておめでとうございます。年の初めにあたって、何か新しい決意や思いをもって臨もうとしている方もおられることでしょう。私自身も幾つかの「今年こそは・・・」を心に抱いております。

 元旦礼拝で、ともに開きます聖書の言葉は、よく知られた箇所であるローマ人への手紙12章1節と2節です。「霊的刷新」というテーマでともに学びましょう。

1.あなたがたのからだをささげなさい!(1節) なぜ私たちのからだを供え物としてささげるのかと言えば「神のあわれみのゆえ」です。この「あわれみ」の語は原文では複数形です。英語で言えばmercy(マーシー)ではなくmercies(マーシーズ)です。パウロは最初から前の章までにおいて、人間の罪と堕落、信仰義認、そして神の人類に対するご計画等を示してきました。それらのことを考えるならば、やはり一つのあわれみ(マーシー)ではなく、マーシーズ(いくつものあわれみ)なのです。そのことから生じる当然の帰結としての私たちの自然な応答は、自らのすべてを神にささげ尽くして生きることなのです。

2.心の一新によって自分を変えなさい!(2節) 「心の一新」の「心」(英語ではmind)とは思いや知性を指す言葉です。1節が示す霊的な礼拝の実践がこの2節に具体化されています。キリストにある私たちは、この世のパターンやそのあり方に従わず、神の御心が何であるのかを、いつも生活の中で吟味して歩むのです。それは礼拝的生活、聖化的日常、決断的人生となることでしょう。

− M.F.−


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