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黙想


2007年7月15日 礼拝に備えて ルツ記3章1節〜18節

 ルツ記は全部で4章あるのですが、ちょうど1章ずつで話が展開し、起承転結になっています。その意味でもこの3章は、「転」の部分にあたり、物語のクライマックスと言ってよいかと思います。しかし、それは静かなクライマックスです。前回の2章では、ボアズの管理する畑の場面で、たくさんの人々が大麦の刈り入れに汗を流す昼日中でした。それとは対照的にこの3章は、夜の帳につつまれた静寂の中での出来事です。そして内容は、ずばり、ルツのプロポーズです。

でもこの求婚の記事は、一般の恋愛小説やテレビドラマとは違って、恋の行方に関心があるのではなく、登場人物の信仰的生き方に私たちの目を集めるのです。ナオミとルツ、そしてボアズの3人が信仰をもってひたむきに生きる姿勢が明らかにされています。

  1. 彼らの姿から、信仰をもって行動する生き方を学びましょう。ナオミもルツも、苦しみをただ歎いて生きるのではなく、信仰をもって祈り、計画し、時を見定めながら大胆に行動しました。
  2. 彼らの姿から、ゴーエール(贖い主、買い戻しの権利のある人)に信頼して歩む生き方を学びましょう。ゴーエールとはヘブル語で、以前自分の所有であったものを価をもって買い戻す人のことを言います。ボアズは地上のゴーエールでしたが、彼女たちは天のゴーエール(贖い主)である神の導きに信頼していました。


2007年6月24日 礼拝に備えて マタイ10章34節〜42節

「和」は私たち日本人にとって、とても大切な価値です。「和」を家庭に、また職場や社会生活のグループに保つた めに、往々にして個人は無視されてしまいます。日本的「和」は、個人の幸福よりもグループの和を保つことのほうが大 義であるとするのです。

 しかし、イエス・キリストは、まずあなた個人が幸福になることが先決であると語ります。あなたの決断によって、ま ずあなたの心に平安を得なさいと勧めています。そして、その平安が他の個人に広がっていくとき、本当の平和、和が社 会に生まれることになります。

 キリストの御国の宣教は、このような平和を社会にもたらします。信仰者に宿る神から来る平安が、「平和」、「和」の 源泉となるのです。

 しかしながら、このような聖書に基づく真理を多くの人は最初は理解できません。それで、福音宣教には、迫害や誤解 が起こってくるのです(マタイ10:34−36)。

 それは、キリストを信じる者は、自分に真のいのちを与えてくれたキリストをすべての者に優って愛するからです(マ タイ10:37−39)。ここに迫害を受ける原因があるのです。そしてこの迫害は甘んじて受けなければならないのです。

 しかし、キリストご自身がそのような中で、キリストを信じ平和を愛する民を興してくださるのです(マタイ10:40 −42)。

    ― 主任牧師室 −


2007年6月17日 礼拝に備えて マタイ10章24節〜33節

先週(6月4日〜10日)、私はアメリカ合衆国フレズノで開かれた「高等教育指導者会議」に出席いたしました。お 祈りありがとうございました。そこでの一番大切なテーマは、「いかにしてイエス・キリストを中心とした教育を施すこ とができるか?」でした。キリスト教主義の学校で目指すべきものは、そこで学ぶ者たちが卒業後イエス・キリストを勇 敢に証しすることができるために備えられることです。

今日の聖書の箇所(マタイ10:24〜33においても、主イエス・キリストは、弟子たちに必要な宣教の性格について教え ておられます。

(1) キリストの福音を宣教していく時迫害が起こってくることを覚悟する必要がある(24,25節)。特に世の指 導者は自分の既得権や権益が脅かされる時、それを排除しようとする。多くの場合キリストの福音はこれにあてはまる。

(2) キリストの福音宣教は、迫害の中にあって、大胆になされていかなければならない(27,32、33節)。

(3) キリストの福音宣教は、神の徹底した守りの中で前進して行く(26、28−31節)。キリストご自身が、す べての主権者として宣教の働きに従事している者を守られる。

(4) キリストの福音宣教は、聞く者にはっきりとした応答を求めていく(32,33節)。

              ― 主任牧師室 −

 

2007年5月6日 礼拝に備えて コロサイ1章15節〜23節

 おはようございます。連休の最終日になりましたが、皆様は有意義な時を過ごされたでしょうか?今朝も各地で主なる神への礼拝が捧げられていると思いますが、私たちも主にある兄弟姉妹と共に心から主に礼拝を捧げましょう。

 今朝は前回に引き続いて、コロサイ書の1章からメッセージをさせて頂きます。パウロはコロサイの人々が正しい福音理解をし、主にあって成長する事を願っていました。その願いは、今の時代のクリスチャンにも期待されています。それを知って、ストレスを感じるのか?主にある信仰を働かせて前に進んで行くのか?それぞれの受け止め方があると思いますが、真理を本当に理解するところからスタートしていきましょう。

 コロサイ書の1章では、神の子であるイエス・キリストの偉大さが語られています。イエス・キリストを救い主と信じる者の成長に彼の存在は必要不可欠です。もし、私たちがイエス・キリストを避けて、この世の知恵や力だけに頼ってしまうと、いつのまにか信仰の土台が揺るいでしまいます。いくら本体が立派でも、土台が不安定だと些細な事でもろく崩れ落ちてしまいます。私たちの信仰がそうならないように、今の内にしっかりとした土台の上に立ち、輝かしい主の栄光を現わす歩みへと向かって行きましょう。


2007年4月29日 礼拝に備えて ヨナ書4章1節〜11節

 ヨナ書の最終章を迎えました。この話が3章で終わっていれば、預言者ヨナ が神によるお取り扱いを受けて変えられ、用いられて、ニネベの町がリバイバ ルし、ハッピーエンドで幕切れという感じだったでしょう。しかし、そこで終 わらずに、意外な展開と示していきます。

 「ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。」と4章は始まりま す。続く2節で、ヨナの祈りが述べられます。「ああ、主よ。私がまだ国にい たときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシ シュへのがれようとしたのです。」こうして、この祈りにより、ヨナに神が教 えようとされた根本的な問題が未解決であることを提示されるのです。

 4章のポイントは下記のようになります。

  1. ヨナの怒りは、彼の考えや思い、信仰が、非常に狭い視野に限定され ていることを告げています。
  2. 神は、怒るヨナを対話と視聴覚教材をもって、教え、諭されます。
  3. 神は、その愛とあわれみにおいて限定されるお方ではないことを 明らかにされます。

 最後の節は、神の絶大なあわれみを表す語りかけで終わり、ヨナの反応は 記されていません。もはや、ヨナではなくこの書を閉じようとする私やあな たに、その応答が求められているのです。「わたしは、この大きな町ニネベ を惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上 の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」


2007年4月22日 礼拝に備えて コロサイ1章9節〜14節

 おはようございます。気候の不安定な時期ですが、周囲の環境に惑わされずに 心を落ち着かせて、心から主を礼拝しましょう。

 今朝はコロサイ人への手紙の1章から、成長したクリスチャンの姿について 目を向けたいと思います。人間は生まれた時は小さく、一人では何もできない 存在ですが、時を経るとともに体が大きくなり、いろいろなことを学び実践し ていくようになります。そして、多くの親や周囲の大人たちは、子供の成長し た姿を見たときに喜びを感じます。

 信仰の歩みにおいても同じ事が言えます。初めは主の存在すら知らない者で あっても、聖書の真理を少しずつ理解して、それを実践していくようになりま す。そして、新しく教会に来られた方や、小さな頃から教会学校などで育って きた人々が主の業に励む姿を見るときに、牧師や教師は喜びを感じます。

 ただし、信仰の成長とは単に聖書の知識が増え、多くの奉仕を抱える事だけ ではありません。それらは成長した姿の一部として表面に表れるものです。反 対に、知識と奉仕の量が乏しいからといって、その人が成長していないとは言 えないからです。

 使徒パウロは、コロサイ人への手紙の中で、主にある兄弟姉妹のためにとり なしの祈りを捧げています。その祈りの中に、みこころにかなう信仰の成長へ のポイントが示されています。みこころを正しく理解し、まとはずれな方向へ と向かわないように、今朝も主のことばに心を向けましょう。


2007年4月15日 礼拝に備えて マタイ9章27節〜38節

 イエス・キリストは何のために来られたのか、今日の箇所はこの質問に的確に 答えています。

 まず、第一に、イエス・キリストは奇蹟を行うことによって、人々にメシヤで あることを示されました(27節〜34節)。  旧約聖書はメシヤであることのしるしの一つは奇蹟であることを示していまし た。例えば、イザヤ35章5〜6節では、「そのとき、目の見えない者の目は開 かれ、耳の聞こえないものの耳はあけられる。そのとき、足のなえた者は鹿のよ うにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。・・・」とあります。  キリストは文字通り、目の見えない者の目を開き、口のきけない者の口を開き ました。多くの人々にとって、それらの奇蹟はメシヤであることの明らかなしる しでした。

 第二に、キリストは御国の福音を宣べ伝えて、彼を信じて人間性を回復する道 へ来るように人々を導かれました(35〜36節)。  人間の病気や悲惨な状況は、人間の本来の姿を反映していませんでした。キリ ストは切なる思いを持って、わたしたちを救いへと導き入れてくださるのです。

 最後に、キリストはご自分の働きに加わる者たちを信仰者から起こされます (37〜38節)。  キリストの人間回復の御業に参与する働き手が、信じる者の中から起こされて いくのです。これは何という畏れ多い務めでしょうか。キリストを信じているあ なたに主は大いなる期待を持っておられるのです。


2007年4月08日 礼拝に備えて ヨナ書3章1節〜10節

 ご復活のキリストをほめたたえ、心からお喜び申し上げます。

 ヨナ書からの講解を続けさせていただきます。キリストが「ヨナのしるし」と 言われたのは、ご自身の復活を示しておられたのです。死から生還した者として 預言者ヨナは神にどのように用いられたでしょうか?

 神はヨナを服従に導かれました(1節〜3節前半)。3章1節はよく見ると、 この書の冒頭部(1章1節)とほぼ同じことに気づきます。ですから、ある聖書 学者は単にこの3章の初めをヨナの服従とは表現せず、「第二のはじまり」とし ました。神はヨナを原点に立ち返らせ、再度スタート地点に立って、神の言葉を 聞くことができるようにされたのです。

 神はニネベの人々を悔い改めに導かれました(3章3節後半〜9節)。神のま なざしは、イスラエルの民だけに注がれていたのではありませんでした。異邦人 ニネベの人々の救いをもその視野に入れられていました。ニネベの人たちも徹底 して悔い改めました。これこそが、リバイバルの証です。

 神は罪に罪を重ねていたニネベの人々も見捨てられず、また、命令に反して逃亡 したヨナをも見放さず、信仰の従順を選択する機会、神のみこころを行う義の器 となるチャンスを与えられました。ニネベの人々に与えられた救いも、ヨナに与 えられた御言葉の宣教者としての召しも、神の恵みの絶大さとその御力を示すも のでした。


2007年4月01日 礼拝に備えて マタイ9章18節〜26節

 人間の最大の敵は「死」です。「死」は誰にとっても怖いものです。しかし、 この「死」に勝利をもたらす道をイエス・キリストは開いてくださいました。  今日の聖書の箇所であるマタイ9章18節〜26節によれば、イエス・キリスト は、「病」と「死」に対して勝利されたことが記されています。ここから、次の 3つの真理を確認することができます。

 第一に、イエス・キリストは死の原因となる「病」に対する勝利者であること を明らかにしました(20〜22節)。12年間も婦人病で出血が止まらない病 のあった女の人が、信仰を持ってキリストに接したとき、彼女は完全な癒し(救い) を受けました。キリストにとって癒すことのできない病はありませんでした。

 第二に、イエス・キリストは人間の「死」に対する勝利者であることを明らかに しました(18〜19、23〜26節)。会堂管理者のヤイロの娘は、深刻な病 に侵されて息を引き取りました。しかし、父親のヤイロは信仰に立ち、娘の癒し をキリストに求めました。イエス・キリストは、彼女をも生き返らせました。

 第三に、イエス・キリストは、これらの奇跡によって人に「病」と「死」をもた らす元凶である「罪」の勝利者であることを示しました(9章2〜8節)。イエス・ キリストの罪の赦しの宣言は、奇跡中の奇跡です。人間が受ける祝福の中でこれに 勝るものはありません。


2007年3月25日 礼拝に備えて マタイ9章14節〜17節

 イエス・キリストの登場は、当時の宗教生活にまさに革命的な衝撃をもたらし ました。今日の聖書箇所において、イエスキリストはユダヤ教で確立していた 宗教的実践であった「断食」について、新しい理解と実践を示されました。

 まず第一に、イエス・キリストは、当時、習慣化していた宗教的功徳としての 「断食」を否定されました。すでに、マタイ6:16でキリストが指摘したよ うに、ユダヤ教の指導者であるパリサイ人、律法学者たちは、自らの敬虔を人 に見せるための行為として断食を実践していました。キリストはそのような「 断食」はふさわしくないと判断しました。

 第二に、イエス・キリストは、正当な「断食」というものがあり、それは真摯 な悲しみを神に伝えるためであるとしました。断食は、神の前における人の悲し みと悔い改めの表現なのです。必要に応じて、自主的に行うものであり、決して 規則化し、義務化すべきものではないのです。

 最後に、一番重要なことですが、イエス・キリストはご自分の教えと、当時の ユダヤ教とは決して融合できるものではないことを主張されました。イエス・キ リストは、外見ではなく、人の内面、心が一番大切であるとしました。人に見ら れて評価されることではなく、神に見られて受け入れられることを人生の一大事 としました。

 今日も、このキリストを見上げて生きましょう。  −牧師室−

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