黙想
「神の愛」
2008年9月28日 礼拝に備えて
マラキ書 1章1〜5節
旧約聖書の預言者マラキは、イスラエルに対する神の変わらない愛について述べています。愛には条件付の愛と、無条件の愛とがあります。
イスラエルに対する神の愛は、契約に基づく無条件の愛でした。そのような愛は、旧約聖書においても新約聖書においても啓示されています。
旧約聖書においては、ヤコブを選び彼に示された愛があります。エレミヤは、この神の愛を「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに誠実を尽くし続けた。」(エレミヤ 31:3)と表現しています。
新約聖書においては、この神の愛は、永遠のいのちを与え(ヨハネ 13:1)、永遠の救いをもたらし(ヘブル 7:25)、永遠に至るまでも力づける(Tコリント 1:8)ものとされています。
しかしながら、このような無限の愛をお持ちの神は、正義の神でもあられます。ヤコブは選ばれたが、エサウは退けられました。神は、エサウに対して多くの一般的な恵みと祝福を与えられましたが、彼は究極的には、神によってその悪が裁かれ、彼の子孫も裁きの結果を摘み取らなければなりませんでした。
「見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。」(ローマ 11:22)
〜シャオ師の説教アウトラインより〜
「驚くばかりの恵み」
2008年9月21日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 9章6〜31節
本日のネヘミヤ記9章は、イスラエルの国民的祈りとも呼べる箇所です。同様な内容の祈りが、エズラ記9章、ダニエル書9章にも記されています。この祈りをじっくり見ると、神はどんなお方であり、神が民にしてくれたこと、そして民は神に対して何をなすべきなのか、ということが記されていることに気づきます。しかもそれは、天地創造の出来事から、族長アブラハムそしてモーセの出エジプト、さらに約束の地の征服、士師の活躍を経て、王国時代とアッシリヤによる滅亡と、バビロンによる捕囚を示し、城壁を再建したその当時にまで及びます。ここまでの旧約聖書の歴史のおさらいでもある箇所になっています。
A.T.ピアソン博士の有名なことばを思い起こす方もおられることでしょう。
"History is His story."
(ヒストリー・イズ・ヒズ・ストーリー
「歴史は、彼(神)の物語である」。)
神が導いて来られた歴史、神を主人公として見る歴史の見方が、ここに表されています。この箇所から、私たちの信じているお方が、どんなお方であるのかを再確認し、このすばらしい真の神をほめたたえましょう。
1) 神はとてつもなく偉大なお方です(1-6節)。それゆえ礼拝しましょう。
2) 神は善をもって導いてくださるお方です(7-30節)。それゆえ感謝しましょう。
3) 神は恵み深いお方です(31-38節)。
それゆえ悔い改めて従いましょう。
− M.F.−
「結ばれた糸」
2008年9月14日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 2章11〜22節
暑さと寒さが混在する日々ですが、今朝も主にある兄弟姉妹と礼拝を捧げる事ができて感謝です。また、様々な事情でここに集えなかった方々の事も覚えて、心から主に礼拝を捧げましょう。
今朝は「結ばれた糸」と題してエペソ2章の後半部分からメッセージをさせていただきます。この箇所は、ユダヤ人と異邦人がキリストにあってひとつにされるという真理が記されています。神の選びの民として歩んできたユダヤ人たちは、自分たちが特別な人間であり、他の国々の人々を見下す傾向がありました。
しかし、キリストは選びの民とそうでない民を区別せずに、すべての人のために十字架にかかり、公平な道を開いてくださいました。そして、全く異なる存在の架け橋となり、それらを和解させる道を示してくださいました。異なる存在とは、聖なる神と罪ある人間であり、選民であるユダヤ人とそうでない異邦人でした。
全く相容れない存在をつなぐ事は並大抵の事ではありません。しかし、イエス・キリストにはそれを可能にするだけの力があるのです。ですから、互いにキリストを見つめ、キリストを中心として関わっていけば、真の一致へと向かう事ができるのです。栄光の神の教会を建て上げるには、この一致が必要となります。主から力を頂いて、真の神の教会を建てあげていければ感謝です。
− M.F.−
「信仰の成長への主の期待」
2008年9月7日 礼拝に備えて
マタイの福音書 17章14〜21節
クリスチャンとしての歩みで大切なのは、「信仰」です。主イエス・キリストはご自分の弟子たちに小さな弱い信仰ではなく。大きな強い信仰を持つように勧めておられます。今日の聖書の箇所(マタイ17:14〜21)から主の私たちに対する期待を確認させて頂きましょう。
(1)いのちの危険(病、事故、等)に遭遇する時クリスチャンは、信仰の試練を受けます(14〜16節)
てんかんで悩んでいる息子を連れてきた父親は、先ず、弟子たちに癒しを願ったが叶えられませんでした。弟子たちはキリストの「癒しなさい」とのご命令に沿うことが出来ず、信仰の大きな試練を迎えました。
どこに原因があったのでしょう。
(2)クリスチャンの不信仰によって神の働きに妨げが起きます。(17〜18節)
キリストの弟子たちは、主ご自身から癒しのご命令を受けていて良い成果を収めることがあったにもかかわらず(マタイ10:1,11:4〜6)主が不在の時には、信仰が弱くなってしまったようでした。
(3)キリストはクリスチャンに大きな強い信仰を求めておられます(19〜21節)。
ここでキリストは、「山を移す信仰」を勧めることによって、どのような信仰を求めておられるのでしょうか。キリストの語られたおことばをその通り受け止め、主との人格的な交わりをしっかりと保って、神の働きを期待する信仰の姿勢が求められているのではないでしょうか。
− T.M.−
「リバイバル」
2008年8月31日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 7章72節〜8章18節
リバイバルとは、信仰復興とか、霊的覚醒といわれていることです。本日の箇所は、捕囚後の歴史においての、まさにリバイバルの物語です。
ネヘミヤの指揮のもと、ユダヤ人によるエルサレム城壁再建は、驚くようなスピードで、わずか52日間でその完成を迎えました。神の恵みの御手が働いていたのです。
しかし、それをもってネヘミヤ記はその書を閉じてはいけません。ネヘミヤが神から委ねられ取り組むべき働きは、物質的な城壁建設でとどまるものではありませんでした。神の民の信仰の建て直しという、いわゆるソフト面のプロジェクトをも、重荷(召された任務)として与えられていました。
今日の教会の働きも、この両面の働きを負っていることを忘れてはなりません。城壁は物質的なことだからどうでもよいとか、また反対に城壁さえ再建すれば何とかなるというようなものではありません。ネヘミヤが心に刻みつけていたように、城壁は神のもの、神の民も神のもの、そして教会も私たちの所有物ではなく、神のものなのです。
ネヘミヤの祈りは神に聞かれ、エズラやレビ人を通して、すばらしいリバイバルの火が投じられました。
(1)神のみことばへの渇きを満たすことのよって、リバイバルは体験されるのです。
(2)主を喜ぶことが力であることを発見することによって、リバイバルを体験できます。
(3)神が真実であることを宣言することによって、リバイバルは味わわれます。
− M.F.−
「過ぎ去りし時代」
2008年8月24日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 2章1〜10節
おはようございます。今日もすべてを主に明け渡して、心から主を礼拝しましょう。
今朝のテーマは「過去の自分の歩み」です。エペソ人への手紙2章の前半部分では、主を、知らない頃の生き方(本文中では罪の中に死んでいたと記されています)とキリスト・イエスによって変えられた生き方が記されています。三位一体の主なる方に目を向けると同時に、今の自分の霊的な状態を見る事が大切です。
エペソ人への手紙1章では、三位一体の神様の性質、特にイエス・キリストに焦点が合わされています。そして、この方に注目したときに、自分との関わりを見る事が大切です。
イエス・キリストは、私たちに何をしてくださったのでしょうか?厳密に言えば、今もなお何をしてくださっているか?と言う事になりますが、この方との交わりを通して今の自分にどれだけ変化があったか?すなわち、以前と比べてどれだけこの方に近づく事ができているかを考えてみましょう。そして、過去の自分よりも更にイエス・キリストに近づけるように前へ前へと進んで行きましょう。少なくとも、以前の考えや歩みに縛られて歩み続ける事は避けたいものです。
− H.K.−
「悪魔の放つ火矢を消せ」
2008年8月17日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 6章1節〜19節
城壁完成を目前にして、ネヘミヤとユダヤの民は、敵の猛烈な攻撃に直面しました。サヌバラテ、トビヤ、ゲシェム、また他の人たちは、ユダヤ人たちの城壁再建の働きを何とか妨害しようと試みてきました。しかもそれは卑劣極まるやり方で、騙し、脅迫、威嚇など、あらゆる手をもって、神の民のプロジェクトを壊そうとしたのです。民が恐怖で縮み上がり、混乱させることを狙っていたのです。
アドルフ・ヒトラーは「精神的混乱、感情の否定、優柔不断、パニック。これらが私の武器である。」と書いています。
本日の箇所を見る時に覚えておきたいことは、新約聖書の啓示の光に照らしてみると、私たちの敵とは、血肉を持った人間ではなく、悪魔、悪霊であるということです(エペソ6:12)。
したがって、「敵を知り己を知らば、百戦して危うからず」と孫子のことばにあるように、敵である悪魔の計略と、ネヘミヤの対処を見ることによって、神の民として歩む現代の私たちにとって、大きな力となることでしょう。
(1)敵は妥協を迫る接近者として来ます(1〜4節)。
(2)敵は親切な忠言を装う誹謗者として来ます(5〜9節)。
(3)敵は罪に誘う脅迫者として来ます(10〜14節)。
(4)敵は執拗な陰謀者として来ます(15〜19節)。
ネヘミヤはこれに対し、霊的な洞察によりその本質を見抜き、神に祈り、敵を退けたのです。
− M.F.−
「主のことばは永遠に」
2008年8月10日 礼拝に備えて
ペテロの手紙第一 1章22節〜2章3節
「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」
私たちの教会の公用聖書である新改訳聖書の第二版までは、この聖句が冒頭に引用されていました。イザヤ書40章8節です。
そしてさらに、本日の聖書箇所の、ペテロの手紙第一1章にも引かれている聖句です。人間の有限性や、時代の移り変わりのスピードの速さ、その中に置かれて翻弄されるだけの孤独な一人一人。そうした空しさを悟った人には、
「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。」
という前半に記された表現をよく理解されるのではないでしょうか。
頼るべきものの見当たらない世にあって、信頼できるものがある。それが「神のことば」であると、聖書は語ります。7節ほどの短い聖書箇所の中に、ペテロは神のことばをいくつもの表現で描いています。「真理」(22節)、「朽ちない種」「神のことば」(23節)、「主のことば」「福音のことば」(25節)「みことばの乳」(2章2節)。
この神のことばによって生じる恵みを、ペテロは展開しているのです。
1、神のことばに従うことによって相互に愛し合う人間関係が生まれます(1:22)。
2、神のことばが宣べ伝えられることによって新しく生まれるという人生の変革が起こります(1:23〜25)。
3、神のことばをよく読み、自らのものとして十分に吸収することによって信仰の成長が与えられます(2:1〜2)。
− M.F.−
「光り輝くいのちを目指して」
2008年8月3日 礼拝に備えて
マタイの福音書 17章1〜13節
イエス・キリスト信仰の真の価値はどこにあるのでしょうか。今日の聖書の箇所であるマタイ17:1〜13に描かれている「イエス・キリストの山頂の変貌」は、その真の価値を明らかにしています。光り輝く姿へのキリストの変貌は、信仰者もいずれの日にか必ず体験できる変貌を指し示していたのです(1〜2節)。
キリストの三人の弟子が体験したものは、とても素晴らしいもので、彼らは変貌したキリストや現れたモーセ、エリヤともに続けていたいと望みました(3〜4節)。この出来事は、夢物語、空想の世界の出来事ではなく、現実のことであったことは、後にペテロが証ししています(ペテロU1:16−18)。
しかしながら、神のご計画はこのような世界がイエス・キリストによって直ちに実現することではありませんでした。
キリストの力強い光り輝く顕現の前に、共に輝くご自身の民が次のように整えられる必要がありましたでした:
(1) キリストご自身に徹底して従うこと、この御方のおことばを信じて歩むこと(5〜8節)、
(2) キリストご自身が先ずご自分の民のために苦しみを受け、死なれるが、再びよみがえられるというメッセージを携えていくこと(9〜13節)でした。
今朝、キリストに従う私たちは、このメッセージをしっかり携え、生ける主に聞き従い続ける歩みに入れられているのでしょうか。
− T.M.−
「恵みあふれる教会」
2008年7月27日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 1章15〜23節
おはようございます。猛暑の中、主に礼拝を捧げるために集ったお一人お一人に主の祝福がありますように祈ります。
今朝のメッセージは教会に与えられた恵みに目を向けたいと思います。石橋教会に与えられた恵みを考える事も大切ですが、その前にすべての教会に与えられた恵みに目を留めてみましょう。
新約聖書で奥義として語られている教会の性質を正しく理解する事によって、祝福されているつもりの教会ではなく、本当に祝福された、恵みあふれる教会となる事ができます。
いつの時代も人間の視点と神様の視点には大きなずれがありました。それはイエス・キリストと12弟子たちとの会話の中にも表われています。神様の偉大な計画は、人間の計り知るレベルをはるかに超えて進められています。ただ、いつの時代も神様に目を向け、みこころにかなった正しい歩みを心がけていた人たちも存在していました。
教会を正しく理解するには、新約聖書の時代に啓示された「奥義」が何を意味するのかを知る事が不可欠です。この奥義を見失った教会は、旧約聖書の真理のみで生きる人たちと大差ありません。車の両輪の片方が機能していない状態と同じなのです。
今の時代に啓示された真理をしっかりと受け止めて、真の神の教会へと近づいていきましょう。
(H・K)
「ブレザレンが問われるとき」
2008年7月20日 礼拝に備えて
ネヘミア記 5章1〜19節
私たちの教団名称は、ご存知のように、メノナイトブレザレンと云います。メノナイトは、再洗礼派運動の指導者メノー・シモンズの名前から取られています。そして、あとの方のブレザレンとは、兄弟たちという意味です。イエス・キリストを信じて、神の前に新しく生まれた者はだれでも、神の子どもであり、神の家族のメンバーとなります。ですから、クリスチャンはお互いを兄弟姉妹と呼び合うのです。
本日の聖書箇所は、旧約聖書の時代に神の民として歩んでいた人たちが、その原点に立ち帰り、真理に従い、罪を悔い改め、兄弟愛を回復して、問題を克服した話です。
ネヘミヤ記を継続して学んでおられる皆様には、すでにご記憶のように、捕囚期後の時代、エルサレムの城壁再建プロジェクトのために立ち上がったネヘミヤのリードの下に、その働きが進められていました。その中で、外部からの様々な脅しや外圧を受けましたが、彼らは敵の妨害に信仰をもって見事に対処していました。しかし、この5章では新たな問題が浮上します。それは内部の問題であり、経済的なことも絡む、難しい内容でした。私たちが信仰の共同体として歩むとき、ブレザレンとしての生き方が問われることがあるのです。
本日の箇所から、次のことを学べるでしょう。
(1)ネヘミヤは罪に対しては、断固とした態度で臨みました。
(2)ネヘミヤは神のことばの原則に従って、問題を取り扱いました。
(3)ネヘミヤは神の民としての立場と兄弟愛の精神を彼らに思い起こさせました。
(M.F.)
「キリストのいのちによって生きる」
2008年7月13日 礼拝に備えて
マタイの福音書 16章21〜28節
イエス・キリストは、信じる者に何をもたらしてくれるのでしょうか。それは「いのち」です。人の死の現実に直面することの多い人生を送る多くの者は、生きることの大切さを深く心に刻みます。「死しての千年より生きての一日」という諺のように、人は誰でも生きることを希求します。しかしながら、肉体の死は確実にやってくることを認めざるを得ないのです。イエス・キリストは、肉体の死を超えたところにある「いのち」をご自身が体験し、私たちにもそれを与えるとはっきり主張しておられます(マタイ16:24,25)。人はどのようにして、そのいのちをいただくことができるのでしょうか。
先ず第一に、神を認めず自己中心の思いで生きている自分の罪を認める必要があります。キリストの十字架を否定したペテロの思いは神の御心に沿うものではありませんでした(22,23節)。
第二に、キリストの十字架の死は、私たちの罪を赦すためであり、キリストの復活は私たちが永続するいのちを得るためであったと信じる必要があります。
まさしく、キリストが通って行かれた十字架と復活は、彼を信じる私たちも通って行くことになるのです(24,25節)。
最後に、キリスト以外には、人に真のいのちを与える者はいないと信じて歩み続ける必要があります。人に永遠の死をもたらす罪の赦しは、罪のない神の子キリストの身代わりの死によってのみもたらされるのです(26節)。
(T.M.)
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