「平安を与える計画」
2008年12月28日 礼拝に備えて
エレミヤ書 29章10〜14節
2008年も最後の聖日礼拝を迎えました。この一年もさまざまなことがあったと思いますが、私たちの確信は、神があらゆることの中にともにいてくださったということです。
これまで捕囚期後に生きる信仰者の姿を、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記などを通して見てきました。エズラ記とネヘミヤ記では、神殿と城壁を廃墟と同様なところから、多くの困難を乗り越えて建て上げていく歩みを見ました。エステル記では、祖国に帰ることのできなかった民が、国家権力を背景にした醜い謀略と偶像崇拝の悪習渦巻く中、神を信じる歩みとは何かを、教えてくれました。
振り返って考えると、神の民として生きる困難さをその身に背負わされるような時代だったように見えます。それでは捕囚期の彼らをいったい何が力づけ、その苦境から立ち上がらせたのでしょうか。だれが彼らを勇士に生まれ変わらせたのでしょうか。
その秘訣を解く鍵は、エズラ記1:1にあると、私は考えています。
「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために・・」(U歴36:22、エズ1:1)
預言者エレミヤが語った主の御告げとは、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。」(エレ29:10)
これこそ、捕囚期の信仰者たちの魂の奥深くに刻まれた、いのちある主の約束の御言葉でした。
− M.F.−
「神の熱情」
2008年12月21日 礼拝に備えて
イザヤ書 9章1〜7節
クリスマスおめでとうございます。
イエス・キリストがお生まれになったのは、今から約2000年も前ですが、それよりさらに700年も前に、救い主がどのようなお方としてこの地上に来られるのかを、イザヤという預言者は克明に記しておりました。しかも、このイザヤ書ほど、キリストに関する預言を数多く示している預言書はほかにありません。キリストの処女降誕、ダビデの子孫として生まれる、聖霊による油注ぎ、罪を贖う苦難のしもべ等、驚くばかりの正確さをもって預言されていました。ある人々は、それゆえイザヤ書を「旧約の福音書」とか、「第五福音書」と呼んだほどです。
本日開きます箇所の9章は、3番目のインマヌエル預言と見られているところです。
1、光として来られた救い主(9:1〜3)「ゼブルン」「ナフタリ」とは、イスラエルの北部、ガリラヤ湖の北と西側の地域です。かつてこの場所はアッシリヤという国に真っ先に占領されて、苦難を最も味わった場所です。しかし、その「死の陰の地」に座り込んでいる人々に、希望と喜びをもたらす救い主の光が上るのです。
2、人として来られた救い主(9:4〜6a)「ひとりのみどりご」として来られた救い主は、私たちの重荷をその肩に背負ってくださる愛なるお方です。
3、神として来られた救い主(9:6b〜7)このお方は「不思議な助言者」です。英語では、ワンダフル・カウンセラーと訳されています!
− M.F.−
「真実の苦しみ」
2008年12月14日 礼拝に備えて
イザヤ書 53章1〜12節
おはようございます。変化の著しい1年がもうすぐ終わろうとしています。今年は世界恐慌などと言われる程、例年になく経済的な変化が激しい年だったと思います。ただ、大きな変化というのは突如として起こるのではなく、過去の積み重ねがある一線を越えた時に表面化するものです。ですから何の変化もない安定している時にこそ、良い変化への積み重ね、つまり未来への備えをしておくことが大切になってきます。
この世の中は諸情無常と言われるようにいつか必ず変化の時が訪れます。しかし、聖書にはいつまでも変わらないものがあると記されています。それが「主のことば」である聖書の真理です。聖書には変わらない内容、言い換えれば変えてはいけない真理が記されています。
慌ただしく変化して行くであろう近未来を向える私たちにとって、いつまでも変わらない土台を持つことは大きな意味があります。
今朝も聖書に記されてある真理に目を留めて、すべての人が苦難の中でも希望の光を見いだせる人生を歩んで行けたら感謝です。
− H.K.−
「赦しの愛で満ちた聖なる教会」
2008年12月7日 礼拝に備えて
マタイの福音書 18章15〜35節
「わたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と宣言されたイエス・キリストは、それ以来、集中して弟子たちを整えていかれました。
前回は、「つまずき」が起こらないように教会は信仰の幼子に対して愛の配慮をしなければならないと、キリストが教えておられるところを学びました。そこでは、特に内側から信者の罪から生じるつまずきに注意をするようにとの強い警告がなされていました。
今回は、その続きとして、教会で起こる対人関係の罪についてどのように対処すべきかが教えられています(マタイ15:〜35)。この罪が、他をつまずかせることにもなります。罪は、聖なる神のご性格に反することなので、それをすみやかにふさわしく対処することが求められています。その対処法とは:
(1) 罪を犯した者が「悔い改め」に導かれ交わりを回復できるよう教会は、あらゆる手立てを講ずるようにする(15〜17節)。
(2) この場合、教会は問題解決に繋がる決断をする権限を生けるキリストから受けている(18〜20節)。
(3) 決断の基本原則は、神が各自を赦された無限の愛を規範として、それに沿って解決に当たっていくことである(21〜35節)。
「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)。
− T.M.−
「救い主を迎える民として」
2008年11月30日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 13章1〜14節
ネヘミヤ記も最終章を迎えました。この13章は、ネヘミヤが最後の最後まで、その改革の手を緩めることなく、神の民を信仰によって建て上げることに従事したことが記されています。
@神殿を聖く保つ改革(1〜14節)
あろうことか城壁再建の猛烈な反対者トビヤが、神殿内の祭司室を陣取っていたのです。また、ユダの人々は礼拝の大切な奉仕を担っていたレビ人たちを支援することも、怠っていました。ネヘミヤの神殿に対する熱い思いは、イエス・キリストがエルサレム入城のあと、宮きよめをされたその姿勢と、全く重なります。
A安息日を遵守する改革(15〜22節)
安息日を守ることは、創造者であり、救い主である神を、各自が生活のサイクルを通して覚える行為でした。新約の光に照らして考えると、毎週の礼拝生活を確保するための努力に符合することかもしれません。物質的な富よりも、霊的な富を優先する歩みが求められているのです。
B異教徒から分離する改革(1〜3、23〜29節)
分離や聖別という考え方は、ともすると、閉鎖的に見られたり、排他性を感じてしまうかもしれませんが、私たち神の民は世の汚れの中から洗われ、救い出されたことを忘れてはなりません。生活の一部になっているような習慣や物でも、もし神に喜ばれないものならば、それを捨て去ることも必要です。
このようにして、ネヘミヤは救い主を迎えていく民として、彼らを教え整えたのです。
− M.F.−
「だれも滅ばないことを願う神の愛」
2008年11月23日 礼拝に備えて
マタイの福音書 18章6〜14節
イエス・キリストの地上での歩みは人に対す愛の配慮に満ちています。そして、キリストは特に彼を信じる「小さい者たち」に対して、格別な配慮を示しています(マタイ18:6〜14)。これは、言わば信仰者をその歩みの初めから徹底して守り育てていくというキリストご自身の強い決意の表れと考えることが出来ます。キリストを信じる者がつまずいて、罪を犯し、その信仰を失うことのないように、「つまずき」に特別な警告を与えています(6節)。
@「つまずき」は、先ず、「世」の人々から来ます(7節)。世には、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢、など(Tヨハネ2:16)が満ちています。信仰者はこれらの肉欲に負けてしまい、信仰生活から離れる場合があります。
A「つまずき」は、教会の先輩の信仰者から来ることがあります(8〜9節)。この「つまずき」は、深刻な影響を信仰を持ったばかりの者に与えてしまいます。新しい信仰者は、古い信仰者を模範とします。それが裏切られるわけですから大きな傷を受け、信仰から離れることがあります。キリスト者は、絶えず自分の肉性をキリストの十字架によって処理する生き方が求められています。パウロの勧めを謙虚に受け止めましょう(Tコリント9:27; ガラテヤ5:24)。
B「つまずき」は、神ご自身が忌み嫌っており、迷い出た羊を何とかして連れ戻す働きをしてくださいます(10〜14節)
− T.M.−
「建設者の喜び」
2008年11月16日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 12章27〜43節
2004年前の聖歌隊が、そして賛美チームが本日の聖書箇所に描かれています!神殿と町とを取り囲む立派な城壁が完成し、神の民は城壁完成奉献式のお祝いをしました。賛美の歌声と、シンバルや琴の音が鳴り響き、歓喜に満ちた礼拝でした。
これら城壁奉献の中に見られる、礼拝の恵みを見ていきましょう。
1.聖書が語る礼拝とは、私たち自身を聖別して神に捧げるものであることがわかります(27−30節)。M.ヘンリーは「クリスチャンは、主に捧げていない物は何もないようにすべきである」と云っています。
2.礼拝とは、私たちが神を大いに喜ぶことです(31−43節)。「聖歌隊」(31、38、40節)という表現と、「感謝の歌」(27節)と訳されている語は、原語では同一単語です。賛美の歌は、何よりも神様に対する私たちの感謝のいけにえなのです。もっと喜びを表しましょう。
3.礼拝において、神が私たちを喜んでおられることを知りましょう(43−47節)。私たちが礼拝を神に捧げているとき、神は何をしておられるのでしょう?預言者ゼパニヤが告げたように「主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれ」(ゼパ3:17)ているのです!
この城壁奉献式を記録した12章は、それよりも500年以上前のダビデの時代に心を向け、46節「昔から、ダビデとアサフの時代から」と記し、歴史的現在であるネヘミヤの時代と並べています(46−47節)。神に賛美と感謝を捧げることを、今のこの時代も決して疎かにしないことを、誓っているのです。
− M.F.−
「成長への祈り」
2008年11月2日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 3章14節〜21節
おはようございます。今朝も主を礼拝するために、共に集えたことを感謝します。
様々な思い煩いや人間的な考えをすべて主にゆだねて、益と変えて下さる信仰を働かせ、主なる神を誉め讃えることに心を向けていきましょう。
今朝は、エペソ3章の後半部分から、使徒パウロの捧げた祈りについて、考えてみたいと思います。エペソ人への手紙は、教会について記されています。この手紙の中で祈りの箇所は2つ記されており(もう1つはエペソ1:15〜19)、その内容は、教会形成の鍵となるものです。
キリストのからだである栄光の神の教会を建て上げる時に、この祈りがおろそかにされてしまうと、形だけの教会になってしまいます。
主の真理を正しく受け止めて、みこころにかなった教会形成へと進んでいきましょう。
今朝のメッセージ箇所にあるように、キリストの愛はそれを可能にします。私たち人間だけの力で成し遂げようとするのではなく、三位一体の神と共にそれを成し遂げてゆきましょう。キリストの愛を知り、内なる人が強められて、みこころが成し遂げられます。
主を信じる私たち一人ひとりが、神ご自身の充ち満ちた様にまで引き上げられるように、聖書の真理に目を向けて行きましょう。
− H.K.−
「いやいやながらでなく、強いられてでもなく」
2008年10月26日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 11章1〜18節
民の十分の一の人々をエルサレムに住むようにしたり、自ら進んでその町に住む人たちを祝福するという記事(11:1〜2)が出てきます。
これは奇妙に感じられるかもしれません。エルサレムの町には、神殿が建てられ、周囲を取り囲む立派な城壁が完成したのです。皆が喜んで住みそうなものです。しかしこの当時、民はいくつかの理由により、エルサレムに住むことに躊躇したのです。百年以上も城壁がない町だったことで、多くのユダヤ人たちは、がれきの山であるこの所から離れ、郊外により広い土地を見つけて家を建てていたのです。その自分の家を捨てて、エルサレムに戻ることはたやすいことではありませんでした。それに都に戻れば、崩された建物や石ころが方々にあり、するべき仕事が山積みになって待っていたこともあるでしょう。
しかし、それらの困難を承知した上で、立ち上がった人々のグループがありました。11章に記されている名前の数々は、そうした自発的にささげた信仰の勇者ともいうべき人々のリストなのです。「自発的」と書きましたが、この「自分から進んで?〜する」(11:2)というヘブル語動詞は「駆り立てられる」というニュアンスを含んでいます。出エジプト記35:21以降にも同じ語が繰り返し記されていますように、この語は神によって感動与えられ、喜びに満ちて行動したことを表しています。ですから、自発的というよりは神発的というべきかもしれません。私たちの信仰姿勢はどうでしょうか。
− M.F.−
「真理の扉」
2008年10月19日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 3章1節〜13節
おはようございます。いつの間にか夏も終わり、暑いのか寒いのかわからない天候が続いていますが、皆様の体調が守られるようにお祈りいたします。
今朝のメッセージは「真理の扉」と題してエペソ3章の前半部分から語らせて頂きます。ここでは「奥義」という単語が出てきますが、これは文字通り奥深い言葉で、非常に奥深い真理を示しています。聖書には他の箇所にも「奥義」が記されていますが、そのほとんどはエペソ人への手紙を記したパウロによって記されています。
そして、そこに記された「奥義」には人間の思いを遥かに超えた神様のお考えが存在します。
この「奥義」は、人間には捉えきれない程の深い真理ですが、同時に測りがたい恵みを与える真理でもあります。私たちがこの「奥義」という真理を正しく知り、それを実践する時に、大きな祝福が注がれます。
私たちは、この真理を正しく知っているでしょうか?私たちはこの真理を正しく実践しているでしょうか?ひとりひとりがもう一度神様の前に立ち、初心に返って真理の道を歩んで行きましょう。
− H.K.−
「キリストの御国に属するさいわい」
2008年10月12日 礼拝に備えて
マタイの福音書 17章22節〜18章5節
イエス・キリストは、公生涯の途中でご自分が当時の指導者によって殺害されよみがえることを弟子たちに予告しました。しかも、それを幾度もなされましたが、その都度、弟子たちは真意を理解できず、深い悲しみに陥りました(マタイ17:23)。実は、そこには、キリストが弟子たちのために、いのちを投げ出し、身代わりの死を遂げてくださるという大きな愛が込められていました。ヨハネは「良い牧者は羊のためにいのちを捨てる」と語っています。
キリストの十字架の死によって贖われた弟子たちは、次には「神の子ども」という特権を受けることができます。聖書は、「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)と記しています。
ですから、キリストの弟子となる者は、みな神の子どもです。そこでの兄弟関係は謙遜と愛の受容に支配されていて、暖かいものです。そこには、競争社会にある能力のある者が勝利者になり、惨めな敗北者が生み出されるような社会秩序ではなく、キリストによる愛の共同体の秩序が存在するのです。「だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:4)とあります。
今朝、あなたはご自分を不幸にしている心の病に気付いておられますか。キリストがあなたを真に幸福にできる医者だと信じようではありませんか。
− T.M.−
「神との関係の刷新」
2008年10月5日 礼拝に備えて
ネヘミヤ記 10章32〜39節
廃墟となっていたエルサレムが生まれ変わりつつありました。ゼルバベルが神殿を建設し、エズラが民を指導し、ネヘミヤが町を囲む城壁を再建していったからです。
これらのバビロン捕囚期後の歴史を記した書(エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記)は、異教社会に取り囲まれた神の民が、神の御名がそしられないように、神を見上げ輝いた彼らの証しが綴られているのです。
| ネヘミヤ記 |
| 1〜7章 | 8〜13章 |
| 城壁の再建 | 民の信仰の再建 |
本日の箇所10章は、神との関係を刷新した人々のリストから始まっています。 これらの人々は、第一のものを第一にすることを決心し、契約の印を押したのです。
彼らの誓約の内容を大きく分けると以下のようになるでしょう
1.日常生活のあらゆる面で、神のみことばに従う決心をしました(28〜31節)。 アウグスティヌスは古い生活に逆戻りする誘惑を受けた時、次のように自分に言い聞かせました。
「おまえは愚かだ。おまえが歩く時、神とともに歩くのを知らないのか。」
2.礼拝生活のすべてのことにおいても、神のみことばに従うことを決心しました。(32〜39節) 最後の節は印象的です。
「私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」
− M.F.−
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