「続 新しくされた者の歩み」
2009年6月28日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 5章1〜14節
おはようございます。今朝も主を礼拝できる環境が備えられていることに心から感謝します。日常の中で常に主を覚えて歩むことは口で言う程に簡単ではないかも知れません。しかし、今一度、主に心を向けて尊い捧げものを致しましょう。
今朝は、エペソ人への手紙5章からメッセージのご奉仕をさせて頂きます。前節からの流れの中で、イエス・キリストを信じて新しくされた者がどのように歩むべきかについて語られています。
これらの真理は罪の弱さを持つ私たちにとって歓迎しがたい教えかもしれません。しかし、人の弱さや考えなどといったこの世の思いを乗り越えた時に、そこには素晴らしい主の恵み、偉大な真理のみことばに満たされる祝福された歩みが待っているのです。
5章の前半部分では「〜らしく」といった表現が数度出てきます。これは人を型にはめる窮屈な教えではなく、愛と自由に溢れた素晴らしい教えなのです。この世のすべての人が、この素晴らしい真理を受け止めて、祝福された日々を送ることができたらなんと素晴らしいことでしょうか。そして、そのようなことも実現可能である主のみことばに今朝も心を集中させていきましょう。
− H.K.−
「次世代に継承するもの」
2009年6月21日 礼拝に備えて
民数記 14章20〜38節
歴史には「もし・・だったら」という空想は確かに果てしがありません。しかし、この民数記13〜14章の出来事に関しては「もし約束の地を行き巡ったリーダー全員が神に信頼していたら」、その後の歴史は大いに変わっていたことでしょう。この出来事は神の民イスラエルの歴史の大転換点であり、それゆえ非常に大きなレッスンを私たちに教えてくれる箇所でもあります。
14章には、3種類の人々が描かれています。それは、主に信頼し従った人たち、主に信頼せず逆らった人たち、そして主に執り成しの祈りを捧げた人、です。
1. 主に信頼した人
カレブとヨシュアは、主に従い通しました。彼らの三つの確信は、約束の地がすばらしいこと、主はともにいてくださるということ、それゆえ主にそむいて敵を恐れてはならないとの強い思いでした。
2. 主に逆らった人
10人の斥候たちとその報告を聞いた会衆は、不信仰の姿をさらけ出しました。エジプト(この世の象徴的存在)を懐かしみ、主に信頼している人たちを排除しようとし、主を悪いお方のように誤解していました。
3. 主に執り成しをした人
モーセはこの騒乱の中で、ただ主の御前に出て、民の赦しを切に願い求めました。
結局は40年間の放浪と約束の地に入ることができないという背信の罪と重荷を、大多数の人たちが味わうこととなりました。しかし、私たちの使命は、次世代に救いの祝福を継承することです。
− M.F.−
「信仰と疑いの分かれ道」
2009年6月14日 礼拝に備えて
民数記 13章17〜33節
約束の地であるカナンを調べるため、12人の偵察者(斥候、英語ではスパイ)が、各部族から1人ずつ選ばれて派遣されました。戻って報告された内容は、肯定的な情報と否定的な情報とがありました。
<肯定的な情報>
○「乳と蜜が流れています」(27節)
<否定的な情報>
○「民は力強く、・・城壁を持ち」(28節)
○「アナクの子孫」(28節)
○「アマレク人・・ヘテ人・・エブス人・・エモリ人・・カナン人が住んで」(29節)
これらの情報を同じように見た上で、導き出された結論は、10人の斥候とカレブとでは全く違うものでした。
<カレブの結論>
○「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(30節)
<10人の結論>
○「私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。」(31節)
同じものを調査し探って来たのに、どうしてこの違いが生じたのでしょうか。「みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかった」(ヘブ4:2)との指摘がそれを明らかにしています。主の約束は信仰によって結びつけられることが必要なのです。
− M.F.−
「真暗闇から光へ」
2009年6月7日 礼拝に備えて
マタイの福音書 20章29節〜34節
日本の諺に「目は心の鏡」というのがあります。人の目は、その人の内面を映し出す鏡のようなものであるという意味です。聖書にも「からだのあかりは目です。」(マタイ6:22)とあります。
今日の聖書の箇所には、この目の機能を失ったふたりの盲人がイエス・キリストによって癒されたことが記されています(マタイ20:29〜34)。
ふたりの盲人(そのひとりはバルテマイが物乞いをしていたエリコの町は、当時目にとても良い薬草が栽培されていました。それで、普通の町よりも多くの盲人がこの町に来て住んでいたと考えられています。当時の盲人の殆どは、非常に貧しく物乞いをして生きていました。彼らの人生は、本当に惨めなものであったに違いありません。しばしばどうしようもない無気力感に襲われていたのではないでしょうか。
そのような彼らに、千載一遇の絶好の機会が訪れました。メシヤであると思われていたナザレのイエスがエリコの町にやってきたのです。ふたりの盲人はこの機会を逃しませんでした。
(1) かれらは、ナザレ出身のイエスがダビデ王の子孫として来る筈のメシヤであることを固く信じ、あわれみを求め続けました(30−31節)。
(2) キリストは彼らのご自分に対する心からの叫びに応え、体と心の癒しをかれらに与えられました(32−34節)。
今朝、皆さまはこのイエス・キリストにどのように臨まれますか。
− T.M.−
「あなたは、どこにいるのか」
2009年5月31日 礼拝に備えて
創世記 3章8〜13節、4章8〜10節
人生の二大問題をご存知でしょうか。
「あなたはどこにいるのか」
「あなたの兄弟はどこにいるのか」
この二つの質問は、創世記という聖書の最初の方に記された、神様から人間への問いです。
「あなたはどこにいるのか」という問いかけを受けたのは、最初の人類アダムが、罪を犯したあとでした。彼は答えます。「恐れて隠れました」と。人間の不安や恐れ、絶望は、罪を犯した結果であると聖書は説明しています。神から離れ、罪の中に埋没している人間は、自分が何者であり、どこにおり、そしてどこに向かっているのかを正しく知らないのです。
「あなたの兄弟はどこにいるのか」この質問は、人類最初の兄弟であったカインが弟を殺害したあとに、神から 言われた言葉です。実は彼の心には葛藤がありました。それは罪との格闘です。
「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを 恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」(創世記4:7)
罪から来る怒りや憎悪の気持ちを、彼は治めるべきでした。しかし、それができなかったのです。
(アメリカの有名な小説家ジョン・スタインベックは、この聖書箇所の解釈を元にして、「エデンの東」という大作を著しました。のちには映画にもなり、ジェームス・ディーンが主演して話題になりました。)
そんな罪深い人間である私たちを、探し出して救ってくださる、それが、イエス・キリストです。
− M.F.−
「モーセの謙遜」
2009年5月24日 礼拝に備えて
民数記 12章1〜16節
問題解決と神の前における謙遜、一見何のつながりもないように見えるこのことが、本日の聖書箇所に示されていることなのです。
「さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数記12:3)
11章からの話しの流れでは、荒野を旅する神の民は、内部の問題で困難に直面していました。最初は外部から加わった人たちを通しての不平でした。それが民全体にやがて広がり、そして遂には指導者層にまで達したのです。
しかし神のしもべモーセは、主の御前で謙遜に生きる歩みを実践することで、この難局を主にあって乗り越えていきました。モーセの信仰の姿を通して、霊的旅路の途上にある現代の私たちに語りかける神のメッセージを聞き取っていきましょう。
(1)モーセは妬みのこころに打ち勝ちました(11:26〜30)。天幕の回りで、長老たち約70人が集められ、霊が与えられ預言しました。しかしその中にいなかった、エルダデとメダデが宿営で預言しました。モーセはしかし心配や妬みの心から解放されていました。
(2)モーセは避難の声に打ち勝ちました(12:1〜16)。ミリヤムとアロンの非難は、モーセの霊的な権威に対する挑戦的反抗でした。モーセは沈黙を守り、すべてを主にお任せしました。謙遜の性質は主との交わりの中で育まれ、種への全き信頼と執り成しの祈りに向かわせるのです。
− M.F.−
「キリストの勧める人間最高の生き様」
2009年5月17日 礼拝に備えて
マタイの福音書 20章17節〜28節
イエス・キリストは「仕えること」と「しもべの道」が人生の最高の生き様と語りました(マタイ20:26、27)。そして、キリストご自身がそのような人生の模範であることを示唆されました(20:28)。
しかしながら、この世においては、そのような歩みは一般的には歓迎されません。「仕える」よりは「仕えられる」ことを、「しもべ」になるよりは「支配者」になることを求めます。そして、その方がこの世における報いがはるかに大きいと考えるのです(20:25)。
キリストの弟子さえも、このような考え方から抜け出していませんでした。ゼベダイの子のヤコブとヨハネは、その母と共に密かにキリストの元に行き、キリストが将来勝ち取る国のトップの立場に2人が任命されるように頼みました(20:20〜23)。このことが他の10人の弟子たちに明らかになると、彼らは激怒しました(20:24)。彼らも同じような期待を持っていたからです。
どうしたら、キリストが歩んだ「しもべ」の道の実践者になることができるのでしょうか。秘訣は、キリスト自身が繰り返し語ったご自身の受難と死と復活を信仰的に深く自分のこととして受け止めることなのです。キリストは、公生涯の中でこのことを幾度も弟子たちに語りました(18,19節)が、その時点では彼らは理解できませんでした。
人を変革する驚くばかりの恵みの力が今もキリストから流れ来て、私たちもキリストの歩みの実践者となれるのです。
− T.M.−
「不平不満不信仰」
2009年5月10日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 4章25〜32節
新聖歌のよく知られた賛美に、
「歌いつつ歩まん ハレルヤ!
ハレルヤ! 歌いつつ歩まん
この世の旅路を」(325番)
とありますが、この歌の通りに心から歩みたいと願いつつも、恐れや試練、そして疲れから、いつしか口から出るのは神に対する賛美ではなく、不平や不満の言葉が洩れてしまうことがあります。
神が旅立たせ、その歩みをともにいただいているイスラエルの民でしたが、荒野での彼らの姿は、ときに感謝や喜びとは逆の、ぶつぶつ文句を言い、神に向かって反抗する御しがたい集まりになっていました。
本日は彼らの姿と、神のその後のお取り扱いから、私たちの信仰を振り返りつつ、学びましょう。
1、不平の言葉を主は聞いておられるということです(1〜3節)。
2、不平の言葉は伝染し、他の多くの人たちにも広がるということです(4〜9節)。
3、不平の言葉は指導者であっても疲弊させるものです(10〜16節)。
4、神は必要な協力者たち(70人)を立てられ、民を成長のために整えられました。
冒頭で述べました「歌いつつ歩まん」の讃美歌作者エリザ・ヒューイット姉は、教育を受けた後、教師となったのですが、脊髄の重い病気のため、人生の大半を障害者として送った女性です。その彼女が人生の旅路を不平ではなく、「歌いつつ歩まん ハレルヤ!」と賛美して力強く歩むよう、歌う者に語りかけています。
− M.F.−
「新しくされた者の歩み」
2009年5月3日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 4章25〜32節
おはようございます。寒暖の差が激しい日々が続き、インフルエンザの脅威が騒がれていますが、心を落ち着かせ、主に礼拝を捧げましょう。また、連休で予定を立てておられる方々も多いでしょうから、お一人お一人の歩みが守られるように主にあって祈っていきましょう。
今日のメッセージは、エペソ人への手紙の後半から、クリスチャンとしてどのように振る舞うかを様々な角度から見て行きたいと思います。
これらの真理は、私たちにとって大変有益なものですが、正しく理解し、かつ、正しく用いないとその意味を失ってしまいます。
確かに罪人である私たちにとって耳の痛い内容ではありますが、それを実践することによって多くの祝福が注がれることを決して忘れないようにしましょう。
当然、これらの真理に目を向けるには、こころの備えが必要です。そして、その備えの秘訣がエペソ人への手紙で今まで読んだところに記されています。
過去にこの箇所を読んでも、うまく実践できなかった人もいると思います。しかし、新しくされた者として、もう一度これらの真理に向き合い、神様が注ごうとしておられる祝福をたくさん受けていただきたいと思います。
− H.K.−
「荒野の道案内」
2009年4月26日 礼拝に備えて
民数記 10章29〜36節
荒野に置かれたイスラエルの民の姿を民数記の中に見てきていますが、あなたが同じような状況におられたら、神に何を願い求めるでしょうか。荒野のど真ん中に幾人かの人々とともに置き去りにされるようなことがあったとしたら、です。
もちろん必要な水や食糧、それに健康、体力を願わずにおれないことでしょう。飛行機もヘリコプターも無い時代のことです。それらに加えて必要とされたもの、それは明確な「導き」でした。目的地への間違いのない方向を示し、どのルートで行くと一番良いのかを教えてくれる道案内を、イスラエルの民は必要としていました。
神が民を導くにあたって用いられたものは、雲、銀のラッパ、道案内人でした。
@神は雲による臨在をもって民を導かれました(9:15〜23)。
幕屋にかかる雲によって、神はご臨在を示され、その雲によって宿営すべきか旅立つべきかを民に示されました。主の命令によって彼らは歩んだのです。
A神は銀のラッパを作らせて民を導かれました(10:1〜10)。
ラッパを吹き鳴らしたのは、祭司であるアロンの子らでした。指導者の号令が行き渡るためにラッパは用いられたのです。
B神は道案内人を用いて民を導かれました(10:29〜36)。
モーセは義兄弟ホバブに道案内人になってくれるように要請しました。他者の声に謙遜に耳を傾ける中にも、神の導きが示されたのです。
。
− M.F.−
「主に献げられた人生」
2009年4月19日 礼拝に備えて
民数記 7章89節〜8章19節
先週聖日はイースター(復活祭)にあたり、十字架に架かられ三日目によみがえられたイエス・キリストを心からほめたたえました。本日も、この復活の主に信仰の目を向けて、礼拝をささげましょう。
荒野の旅を続けるイスラエルの民の歩みを、民数記を通して学んでいます。本日は7章と8章を見ていきます。イスラエルの民を贖い出された神は、荒野の旅の間中、彼らを真の礼拝者となるように整えていかれました。旧約聖書の時代も、今の時代も、神が私たちに願っておられることは、本質的に変わりはありません。礼拝をささげ、神に仕えるりっぱな奉仕者となるように、神は今も私たちを導いておられるのです。
7章の主な内容は、幕屋の祭壇奉献の記事です。十二部族のそれぞれの代表者たちが、同じ内容で同じ量のささげ物を間違いなく主の御前に持って行ったのです。
そして続く8章は、最初に燭台(メノラー)のことについて触れ、5節から終わりの26節までレビ人の規定が述べられています。
以前にもお話ししましたように、レビ人は今日のクリスチャンとよく似ています。@レビ人は主から選び取られた人々でした。Aレビ人はきよめられた人々でした。Bレビ人は奉仕の務めを委ねられていました。
そして冒頭にある燭台は、のちの聖書箇所にも示されていますように、神の臨在の象徴でした。神の偉大な見守りの中、レビ人たちは神から「わたしのもの」と呼ばれ、その御手に握られて、主の奉仕のために聖別されたのです
。
− M.F.−
「復活の真理」
2009年4月12日 礼拝に備えて
テサロニケ人への手紙第一 4章13〜18節
おはようございます。今年もイースターの時期となりました。イースターとは復活祭のことであり、イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって十字架で死なれた後、3日後によみがえられたことを祝う日です。また、イースターは移動祝日としても有名であり、日付の規定に、春分の日から後の初めの満月の次の日曜日、とあるので、年によって3月の終わりであったり、4月であったりと定まっていないのが特徴です。これは、その国が太陽暦か太陰暦か等の違いにより調和をとってこのように定められているそうです。
復活祭の日付に関しては変化がありますが、イエス・キリストが死から復活されたという事実は変わりません。キリストの復活を目の当たりにした使徒たちは、その証人として多くの人々に復活の事実を語りました。そして、この復活の真理こそキリスト教の大切な教えであり、今を生きる私たちに関係のある真理なのです。聖書にあるTテサロニケ4:13には「眠った人々について」というかたちで死んだ人々について語っています。今朝はこの箇所から聖書の教える復活の真理に目をとめてみましょう。そして、死に勝利されたイエス・キリストを信じて、希望を抱いて歩んで行きましょう。
− H.K.−
「あとの者が先になり、先の者があとになる」
2009年4月5日 礼拝に備えて
マタイの福音書 20章1節〜16節
「このように、あとの者がさきになり、先の者があとになるものです。」(マタイ20:16)
新約聖書の中で、4回出てくるキリストが語ったことわざのような表現だが、その意味理解は決して容易ではありません。
文脈をよく観察すると、この表現は、次の3つの大切な概念で把握されなければならないことに気付きます。
(1)この表現は、天の御国の原則をしめいる(20:1を参照)
福音書によれば、「天の御国」と「神の国」とは同じことを語っており、基本的な意味は「神様のイエス・キリストを通しての人間の支配、統治」です。平たく言えば、愛の神様が人間とどのように関わってくださるかの原則が語られています。
(2)この表現は、終末において救われた者がいただく「報い」について語っている(19:27-29、20:5-15、ルカ13:28-30を参照)
弟子たちの関心は、将来どんな報いがあるのかということでしたが、主は、何の心配もないことを語りました。
(3)この表現は、終末の報いはこの世とは全く違った「恵み」の原則であることを示している。
「恵み」の原則は、人が始めに救い入れられる時だけでなく(19:23-26)、最後の報いの時にも適用されるものであることがこの表現によって明らかにされています。(20:13-15)
− T.M.−
「あなたを祝福する神」
2009年3月29日 礼拝に備えて
民数記 6章22節〜27節
礼拝の最後に牧師が祈る「祝祷」の最も代表的なかたちが、本日の聖書箇所に記されています。
「主があなたを祝福し、
あなたを守られますように。
主が御顔をあなたに照らし、
あなたを恵まれますように。
主が御顔をあなたに向け、
あなたに平安を与えられますように。」
(民数記6:24〜26)
この祝福の祈りは、「アロンの祝祷」と呼ばれています。私たちの教会で宣言されている祝祷は、使徒パウロが第二コリント13:13で記しているものです。実に聖書は「祝福」という言葉を用いて、人々に対して神がいかに私たちを愛しておられるのかを明確に語っています。創世の初めより、神は人間を祝福されました。族長アブラハムには「祝福の基(もとい)とする」と約束されました。
あなたは神から祝福されていることを、あるいは祝福される存在であることを、受け止めておられるでしょうか。祝福の反対は、呪いです。世にあって、私たちはしばしば呪いの言葉を浴びせられ、傷つき弱り果てています。創造主である神のみもとに近づき、私たちに差し向けられた慈愛に満ちた祝福のことばを聴きましょう。
1、三位一体の神があなたを祝福されます。
2、神はあなたを神の民として見られ祝福されます。
3、神はあなたを祝福を広げるために祝福されます。
− M.F.−
「献身の誓い」
2009年3月22日 礼拝に備えて
民数記 6章1節〜21節
春のすばらしい季節を迎えました。実際の歩みでも、心の中での決心においても、新鮮な思いで新たな出発や取り組みが始められる良い時ではないでしょうか。
本日の聖書箇所に記されている旧約聖書の律法規定は、神様につながっている一人の人が、特別な思いを抱いて決心をし、自らを主にささげ、聖別された者として生活するという誓願の内容です。
このように神様の前に献身を誓う人たちは「ナジル人」と呼ばれました。「ナジル人」とは、ヘブル語で聖別された者という意味です。その誓いは、特別な家系や階級に生まれなくても、男性でも女性でも、誰であってもその願いを持つ人たちに開かれていました。
また、その期間も限られた日数を果たす場合もある一方で、生涯のすべてをナジル人として歩む人たちもいました。生涯ナジル人だった人たちには、旧約では士師のサムソン、預言者サムエル、新約では、バプテスマのヨハネや、主イエスの兄弟ヤコブが知られています。
@ナジル人は自発的な献身者であるということです。外側から強制されてではなく、自分の心で決めて、自らを主に明け渡すという信仰が示されています。
Aナジル人は神様との絶えざる交わりの中に歩む人です。頭髪を剃らないことは、神様との交わりを保つことの象徴でした。
Bナジル人は神様によって聖なるものと呼ばれるべき人たちでした。神様を第一とする歩みがこの誓願で問われているのです。
− M.F.−
「新しくされるために」
2009年3月15日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 4章17〜24節
おはようございます。今年は例年より花粉が多い季節のようです。気分の優れない方やカゼ等で万全な状態でない方もいらっしゃるでしょうが、私たちに救いの道を開いてくださった偉大な主に感謝して、心から礼拝をささげましょう。
今朝もエペソ人への手紙からメッセージをさせていただきます。今回の箇所は、この手紙の中で何度か触れられている内容です。しつこいように感じる方もおられるかも知れませんが、聖書の中で繰り返し語られている内容はとても大切な内容であり、同時に人間が陥りやすい内容でもあります。
このエペソ人への手紙のテーマはキリストのからだを建てあげること=教会形成です。私たちが教会という名ばかりの建物ではなく、本物の教会を建てあげる時にどうすれば良いのかが記されてあります。その書の中で繰り返されているということは、今朝の聖書の内容は現代の教会にとっても重要な心理であると言えます。
人の評価も大切ですが、それ以上に主なるお方にどう評価して頂くかを考えましょう。主に喜ばれる教会であるために、主のことばを礎として歩んで行きましょう。
− H.K.−
「救いの秘密」
2009年3月8日 礼拝に備えて
ヨハネの福音書 3章1節〜15節
「救われる」とか「信じる」という言葉は、教会でよく話され、聞きもします。でも、いろいろ説明されても、聖書を読んでも、すぐにはどういう風にすれば、クリスチャンになれるのか、救われるのか、判らない場合があると思います。また、なかなか納得できなくて、信じられない、洗礼を受けるほどの気持ちはまだない、という方もいらっしゃることでしょう。しかしあせらずに、どうか礼拝に来て、聖書のことばを聴き続けていただきたいと思います。そして何かご質問がありましたら、どうぞ近くにいる牧師や教会の人にお尋ねください。
さて、本日お話しするニコデモという人物は、まさに救われるということがなかなか呑み込めず、理解できなかった人でした。また、現代の多くの人々のように、たくさんの知識や情報を持っており、経験豊かな熟年の人でもありました。そこでイエス・キリストの個人カウンセリング的(あるいは個人伝道的)対話がなされました。この対話を知ることで、信じたい方には、救われるために必要なことがわかります。そして同時に、クリスチャンの方には、どのようにして救いを求めている方に接したらよいのかを、学ぶことができるのです。
1、人は救われるために、神の国を求めることが必要です。神の国をご存知ですか。
2、人は救われるために、新しく生まれなければなりません。新生とは何でしょうか。
3、人は救われるために、キリストの十字架を信じて仰がなければなりません。十字架はあなたにとってどんな意味があるのか、知っておられますか。
− M.F.−
「天からの贈り物」
2009年3月1日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 4章7〜16節
人は古今東西、来世でのことに思いを馳せました。仏教では極楽往生が説かれ、地上での歩みにおいてはしかるべき戒律に基づいて生きるよう勧められていました。旧約の民であるイスラエルもまさに、このような歩みを実践していたのです。
しかしながら、マタイの福音書19:16〜30においては、一人の裕福な若いユダヤ人の指導者が、自分の来世に確信を持てなくてキリストのもとに来て、質問をしたのです。この青年に対するキリストのお答えの中に次のようなすばらしい真理が込められていました:
(1) 良いことを行って功徳を積んで天国に行く道は、非常に険しく完全な生き方が求められる(16〜22節)。
なぜこの道は険しいのでしょうか。
それは、使徒パウロが語っているように「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」とあるからです。罪人が戒律を守っても、それは完全ではなく不十分なもので、罪の自覚のみが生じて来るのです(ローマ3:20)。
(2) 人が天国に行くためには、人の努力を超えた神の力を必要としている(23〜26節)。
人間が何をしても神に受け入れていただけないとすると、人に残された道は神にただすがり信頼することです。すなわち、私たちの罪をただ憐れみによって許していただくのみです。
(3) キリストに信頼する者は、天国への道が開かれるだけでなく、地上での歩みにおいても豊かに祝される(27〜30節)。
− T.M.−
「天からの贈り物」
2009年2月22日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 4章7〜16節
おはようございます。相変わらずの世の中ですが、今朝も共に主の聖名を誉めたたえましょう。
今朝はエペソ人への手紙4章から、「賜物」についてメッセージをさせて頂きます。私たちはひとりひとり天から賜物を与えられています。しかし、私たちは本当にこの賜物の意味や本質を理解できているでしょうか?
私たちは日々の生活の中でギフトを受けとることがあります。しかし、その差出人がどこの誰かもわからず、また、ギフトそのものが何なのかわからなければ、多くの人はそれを自分で用いることはしないと思います。
ですから、もし賜物が何なのかを私たちが正しく理解していないなら、それを正しく用いることが難しくなってしまいます。神様は私たちに素晴らしい恵みを多く注いでくださっています。その恵みをむだにしないためにも、基本的なことから見直していきましょう。私たちの心に感謝の思いがあるなら、恵みに対して応答できるのではないでしょうか。主からの恵みへの感謝の応答として、賜物を正しく理解し、用いていきましょう。
− H.K.−
「神に仕える使命」
2009年2月15日 礼拝に備えて
民数記 3章1節〜20節
本日の礼拝は、3000回の記念礼拝です。聖日(日曜日)が1年間50回であることを考えると、単純計算で60年かかることになります。(実際には60周年はまだ迎えてはおりません)。先日、ご召天されました初代牧師のハリー・フリーゼン先生が中心となって、1951年よりこの石橋の地で礼拝が始められたことを思いますと、休みなく積み重ねられた歳月の重さと、神の恵みの深さとを改めて感じます。
そして民数記を開きますと、私たちの礼拝の霊的な源流はさらに永く、旧約聖書の時代に連なるものであることに気付きます。出エジプトを果たしたイスラエルの民は、神から「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出19:6)と定められていました。彼らは礼拝する民でした。礼拝するために贖い出されたのです。彼らが礼拝する民として歩むために、神は礼拝のために特に選び分けられた人々を任命されたのです。
それは祭司とレビ人でした。
@祭司は油注がれ神によって任じられた人たちでした(3:1〜4)。「油注がれて」とは、メシアという言葉と同じです。祭司はキリストのお働きを想起させます。
Aレビ人は奉仕する者のために奉仕する人たちでした(3:5〜10)。祭司の働きを助ける役割をレビ人は担っていました。
Bレビ人はすべての初子の代わりにささげられた人たちでした(3:11〜51)。レビ人は神から「わたしのもの」とされていたのです。私たちも贖われた以上、もはや自分自身のものではないのです。
− M.F.−
「再婚に関する聖書の教え」
2009年2月8日 礼拝に備えて
マタイの福音書 19章3〜15節
人間生活において、結婚はとても重要な領域です。この領域で祝福を体験できるか どうかによって、人の幸福度は大きく左右されます。キリスト者は聖書に基づいてこの領域においても確かな指針を得る事ができます。
前回の学び(マタイ19:1〜12)において、私たちは次のことを確認いたしました。
「結婚は神自身が定めてくださったもであり(19:5)、それゆえ、離婚は神の御心ではない(19:6)。」
しかしながら、旧約のイスラエルの神の民においても、新約時代の今においても、離婚は人間の罪深さの故に現実のものとなっています。それでもなお、私たちを創造された神は、傷ついた者を哀れんでくださり、許しと回復へと導いてくださるのです。離婚者は再婚を許されているのでしょうか。この領域における聖書の教えを以下まとめます。
@ 結婚相手が何らかの理由で死亡する場合は、地上での結婚関係は解消されているので、再婚は問題ないが、独身を保つほうが良い(Tコリント7:39-40;マタイ22:30)。
A 離婚が起こり、両者が地上で生きている場合は、
@ 独身にとどまるか、相手との和解を求めるべきである(Tコロント7:11)。
A それでも何らかの理由でどうしても再婚を願う場合は、信仰の共同体の中で十分な指導と了解を得るべきである。
− T.M.−
「主はあなたのただ中に」
2009年2月1日 礼拝に備えて
民数記 1章47節〜2章9節
前回より、旧約聖書の民数記を開いています。この書のヘブライ語タイトルは「荒野にて」になっていることをすでにお話ししました。
シナイ山からカナンの地への道のりは、日本の風土と比べてみても非常に厳しく、困難な旅だったことでしょう。イスラエルの民が約束の地を目指す荒野の旅は,どのようなものだったのでしょうか。
@神は、数ある部族の中からレビ人たちを特別に選び分けられました。彼らは他の部族中最小の人々で荒野の旅中、幕屋の管理と運搬、聖所の奉仕に当りました。他のどの部族も幕屋に触れることは出来なかったのです。しかも、彼らは幕屋に最も近いところに宿営していたのです。神を礼拝し仕えるために召され聖別された者たち、すなわち私たちクリスチャンの原型がここに見出されるのです。
A神は民の中心に幕屋を設けて、進むようにされました。幕屋とは、移動が出来る礼拝所でした。組み立て、分解して運ぶことが出来る天幕の聖所だったのです。民がとどまる時には、この幕屋を中心にしてそれを取り囲むように、部族ごとに並んで四方に宿営しました。常に神の臨在が現わされる幕屋が彼らの中心に位置していました。私たちの中心には何が置かれているでしょうか。
生活の中心には、心の中心には、何があるのでしょうか。
− M.F.−
「荒野をゆく」
2009年1月25日 礼拝に備えて
民数記 1章1〜19節
今回より、旧約聖書の民数記から神の御言葉を聴きます。民数記は、律法(トーラー)とも呼ばれるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の中の四番目の書です。
創世記においては、神が一つの民族を選ばれ、出エジプト記でその彼らを神が贖い出され、レビ記では聖別され、そしてこの民数記では、彼らを成熟の過程を通して約束の地へ導かれたことが記されています。
本日は1章の箇所を見つつ、民数記のタイトルからも推し量られる2つの点から学びましょう。
@民数記は荒野の旅路を描いています。
ヘブライ語聖書のこの書の題は、直訳すると「荒野において」(ベ・ミドバル)となっています。シナイ山で神は契約を民と結ばれ、彼らは神の民と呼ばれるものになりました。そして約束の地へ向かって行くのです。彼らの旅は荒野を通って行かねばなりません。草木もまばらな砂漠にも似た風景がどこまでも続いているのです。しかしここで神は、彼らとともにおられ、語られ、導かれたのです。
A民数記は2度の人口調査を描いています。
民数記は邦語でも英訳でもほとんどが人口調査を意味するタイトルが掲げられています。部族名やそのリーダーの名前、登録されている人数など、現代の読者には退屈に感じられる箇所かもしれませんが、こうしたリストこそ、彼らが神の約束の確かさを確認し、戦いのために団結し整えられるために必要なことでした。
− M.F.−
「思いをひとつに」
2009年1月18日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 4章1〜6節
おはようございます。激動の中で始まった2009年ですが、新しい年も主なる神様を心から礼拝していきましょう。
昨年から継続してエペソ人への手紙からメッセージをさせて頂いていますが、後半部分の4章からは、かなり実践的な内容が記されてきています。ただ、これらの真理は1−3章の内容を土台としています。三位一体の神様はどのようなお方なのか?キリストの救いとは?奥義として示された教会のあるべき姿とは?このような質問の答えを理解した上で、具体的な行動を考える必要があります。もちろん、真理の実践は理屈ではありません。ひとことでいえば言えば、真実の愛があればいいのです。愛から生まれるすべての事は聖書的な実践になるからです。
ただ、愛は具体的な行動で示されてこそその本質が現れます。そして聖書はその現われの具体的な場所を教会に求めています。それがどのように求められているのか?聖書をじっくりと味わって、正しく理解していきましょう。
真理の実践は簡単ではありません。しかし、まったく不可能というわけでもありません。今までできなかったからといって、これからもずっとできないわけではありません。聖書が語る素晴らしい真理に少しでも近づけるように祈り求めていきましょう。
− H.K.−
「放蕩息子とマジメ息子」
2009年1月11日 礼拝に備えて
ルカの福音書 15章11〜32節
失ったものを見つけ出すときの喜びは、たとえようもないほどうれしいことです。私が会社勤務をしている時、電車通勤だったのですが、定期券の入った財布を失いました。降りて駅の改札口を出ようとしたときに気づき、駅員の方に話し、紛失届を出しました。そしてこう言われたのです。「財布の中に定期券を入れておられて、これまで出て来たことはありません」と。しかし、数日後に定期券も財布も無事に戻ってきました。神の憐れみに感謝しました。線路内に落ちているのを作業員の方が見つけ出してくれたのです。
ルカの福音書15章には、イエス・キリストが語られた三つのたとえ話が記されています。共通のテーマは、「失われていたものを見つけ出す」です。
その中でも、いわゆる「放蕩息子のたとえ」として知られている本日の聖書箇所は、「福音の中の福音」「福音書中の真珠」と呼ばれ、神の愛と赦しの福音が充溢しています。
このたとえ話は、「父」が神を表し、二人の息子が私たち人間を表しています。父の生前であるにもかかわらず、相続財産を要求し、旅立つ身勝手な弟息子。そして放蕩三昧のあげく、無一文になり、父のもとに立ち返る前段と、弟息子帰還を祝う父に、怒りをぶちまける兄息子。それをなだめる父の真実のことばで結ばれる後半部分に分かれます。このたとえはあなたが弟息子のようであっても、兄息子のようであっても、父のもとに帰りなさい、その愛の胸に抱かれなさいと告げているのです。
− M.F.−
「結婚と離婚に関するキリストの教え」
2009年1月4日 礼拝に備えて
マタイの福音書 19章1〜12節
人間生活における結婚、離婚の問題は有史以来の問題です。聖書によるとアダムとエバの結婚に見られる一夫一婦制は、アダムのカイン系7代目のレメクによって破られました(創世記4:19)。罪が人類に侵入したのがその原因です。
時代が下って、イエス・キリストが地上で活躍されていたときも、イスラエルの人々は同じ問題と戦っていました。当時、旧約聖書に従って歩んでいた民は、離婚について、2人の偉大な律法学者の申命記24:1に関する2つの対立する解釈に悩まされていました。シャンマイ派は不倫、不貞というような根拠がある場合のみ離婚は許されるとし、ヒレル派はそれ以外の理由を多く認めていました。
このような時代状況の中で、キリストを罠に陥れようとするパリサイ人の巧みな試みがあった(3節)が、キリストはどちらの解釈の肩を持つ持つこともしないで、次のような現代にも適用できる基本原則で答えられました。
(1)創造者は一人の男と一人の女に結婚という聖なる定めを設けられており、一心同体とされたものに離婚は考えられない(4-6節)。罪が侵入する前の定めこそ、今も神の御心であり、人は真にそれを求めるべきであるとキリストは語ります(マタイ5:31、32)。
(2)しかし、神は罪に陥った人類のために愛の配慮をし、不貞という状況では、離婚を許容してくださる(7-9節)。
(3)創造者は、結婚を多くの人のために定めておられる(10-12節)。
− T.M.−
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