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黙想


「いのちを与える不思議な石」

2009年12月27日 礼拝に備えて

マタイの福音書 21章33〜46節

 イエス・キリストは譬えを語る名手でした。譬えは、日常生活の諸状況を通して真理を説き明かす修辞法で、キリストの用いた譬えは、多くの場合ご自分に関する真理を明らかにしています。今日の聖書箇所(マタイ21:33〜44)は、キリストの語った代表的な譬えの一つです。次のような真理をそこに読み取ることができます。
(1)イスラエルの選び(33節)
天地万有の創造者なる神は、一つの地(カナンの約束の地)を選びそれを整え、そこの管理者としてアブラハムの子孫(イスラエル)を置かれました(33節)。45−46節のユダヤ人の宗教指導者の反応から譬えが誰のことを語ったかは明らかです。
(2)イスラエルの失敗(34〜39節)
しかしながら、イスラエルはモーセを通して示された律法に基づいて真の神礼拝を忠実に捧げることに関して、失敗の連続でありました。神から遣わされた預言者のことばにも従わなかったのみならず、神から遣わされた神ご自身の息子さえも殺害してしまいました(37−39節)。イスラエルの罪深さは、彼らだけのものでしょうか。実は、全世界の人類の姿でもあるのです。
(3)殺害された神の子による不思議な救い(42節)
 イスラエルによって殺された神の息子(イエス・キリスト)は、見捨てられた石とみなされたが、実は神の目には大きな働きをし、全ての人の人生を支える礎の石となった不思議な石なのです(43節)。
 新年もこの不思議な業をなさる御方によって歩もうではありませんか。 

− T.M.−


「人類の救い主」

2009年12月20日 礼拝に備えて

ルカの福音書 1章28〜38節

 クリスマスおめでとうございます。私たちを救いへと導いてくださるイエス・キリストがこの世に来てくださったことを心から感謝します。
 この世の中では、クリスマスとは会社の売り上げを伸ばしたり、社交の機会として考えられているかも知れません。しかし、キリストのからだである教会までもが、クリスマスを単なるイベントや何かの絶好の機会であると考えて、もっとも大切なことを忘れてしまうのは避けたいものです。
 世界で初めのクリスマスで何があったのか?今朝はもう一度初心に返って、心からクリスマスをお祝いしましょう。今回は、イエス・キリストがまだ母マリヤの胎内におられる時の話です。天使とマリヤの対話の中に、信仰者としての祝福が示されています。
 メリークリスマスと言いますが、私たちの心の中に本当の喜びがあるでしょうか?目の前の現実に目を向けることはとても大切ですが、いつでも主を見上げることができるように心がけていきましょう。主を礼拝するこの良き日を心から感謝し、祝された日を過ごしていきましょう。

−  H.K.−


「岩から水が」

2009年12月13日 礼拝に備えて

民数記 20章1〜13節

 クリスマスのすばらしいシーズンを迎えました。本日は午後、教会学校のクリスマス会、そして次週聖日(日曜日)は、クリスマス礼拝と祝会が予定されています。また24日には、イブ礼拝が夜に持たれます。どの集いにもぜひご参加ください。
 本日開きます聖書箇所は、メリバの水の事件として知られているところです。後の時代にまで伝えられた(詩篇81、95、106など)理由は、この出来事を教訓としてしっかり生きるためでした。どういう教訓かと言いますと、「神への不信仰、不従順」に対する戒めとしてです。
 そしてそれは新約聖書においても繰り返し、警告の言葉として語られました。
 「きょう、もし御声を聞くならば、
  荒野での試みの日に
  御怒りを引き起こしたときのように
  心をかたくなにしてはならない。」
   (ヘブル人への手紙3:7〜8)
 このメリバの水の事件の厳しさは、あのすぐれた霊的指導者モーセでさえ、不信の罪を犯してしまったという事実にあります。20章の8節の神の命令と、10節のモーセの行動と言葉を比較してみてください。モーセは岩に語るだけで良いのに、岩をその杖で2度も打ち、会衆への言葉には怒りの表現だけで、神に栄光を帰した内容になっていません。
 神はこのことのゆえにモーセとアロンを懲らしめましたが、民も指導者までも不信の罪を示す混乱した中にも、御霊の岩、キリストがおられることを示しておられたのです(コリント第一10:4)。

− M.F.−


「芽を出したアロンの杖」

2009年12月6日 礼拝に備えて

民数記 17章1〜13節

 アロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花を咲かせ、アーモンドが実を結ぶ、という不恩義な奇蹟で知られている箇所から、今日は御言葉を聞きたいと思います。
日本の民話に、「花咲爺さん」というのがあります。枯れ木に花を咲かせるという話でよく知られています。昔話と比較するのもおかしなことですが、地面に植わっている枯れ木に灰を注いだら花が咲いたという話です。しかし、聖書に記された奇蹟は、それ以上です。というのも杖という道具に加工されてしまっている、いのちのない棒きれが、なんと花を咲かせ、実を実らせるというのですから、本当に驚きです。
 このことが起こった民数記の話の流れは、イスラエルの民たちが、神によって立てられた指導者モーセやアロンに対し、反旗を翻した出来事の中でのことです。特に、アロンの大祭司職についての妬みと挑戦の心が、コラ族の中に起こったことによって、神から厳しい罰がくだされ、会衆全体が揺れ動いていた中でのことでした。
 神はアロンの大祭司職が神ご自身から出たものであることを明らかにするために、このようなかたちの「しるし」を示されたのです。 大祭司の務めを、新約時代の視点で移し換えてみると、第一に、クリスチャン一人一人に与えられた「神の素晴らしい選び」と、「選びのしるし」を想起させます。そして第二に、完全なる大祭司イエス・キリストの恵みが明らかに示されます。私たちに与えられた慈しみ深い大祭司によって、私たちは平安をもって神に近づくことができるのです。

− M.F.−


「あなたの人生に平安を!」

2009年11月29日 礼拝に備えて

マタイの福音書 11章28〜30節

 現代社会は、バラ色のユートピア(理想郷)を実現したといえるのでしょうか。確かに外観は驚くばかりに整っているように見えますが、そこに住む多くの人々の内面はユートピアからかけ離れたような砂漠状態にあると言えるのではないでしょうか。
 キリストは、神を忘れた人間の行き着くところは、あらゆる種類の疲れ、ストレス、重荷、悩み、苦しみ(マタイ12:28)であると語っています。自分の欲望とこの世の価値観を神として歩む人類は、大昔から現代社会と同じ病を体験していました。
 どのようにしたら、このような苦しみから解放されるのでしょうか。キリストは、解放をもたらす次の4つのステップへと私たちを招いてくださっています。
1、あなたは、疲れと重荷からの解放を求めて、キリストとキリストをこの世に遣わした御方を認めてキリストの元に行くのです(28節)。
2、そして、あなたは、キリストの元でそれまで自分が担ってきたこの世や自分の欲望という神を捨て、キリストご自身を自分の神として受け入れ、人生をキリストと共に歩む決断をするのです(29節)。ここで、あなたの魂に平安が宿ります。
3、あなたは、キリストと共に歩む人生で絶えずこの御方から真理を学び続けていくのです(29節)。あなたの魂に平安が続きます。
4、こころ優しくへりくだっているキリストは、あなたの人生に正当な任務を与え、それを担うあなたの人生は、喜びと平安の内に実を 結ぶことになります(29−30節)。
今日、イエス・キリストをあなたの人生に 迎えませんか。

−  T.M.−


「収穫の時」

2009年11月22日 礼拝に備えて

ヨハネの福音書 4章28〜42節

 あなたは聖書に教えられているような完全な生き方をしなかったし、今もしていない、ということで良心に苦しみをおぼえていますが、主の真実の御言葉と永遠の真理から、誠実な姉妹であるあなたに、主にある兄弟からの慰めとして以下のことを書きます。
 聖書はすべての人々が罪の下にいると結論づけている、とパウロは言っています。ソロモンによれば、正しく行動し罪を犯さない、というものはこの世にはいません。また、別のところによれば、義人は七度も倒れて、また起きあがります。モーセは言っています、「主、慈悲深い神、慈悲深くて恵み深く、忍耐強く、優しさと真理に満ち、多くの人々に慈悲深く、不正と違反と罪を許して下さる神、この方の前では罪のないものはない」。神の前では罪のないものは誰もいない、と言っているのに注意をして下さい。ダビデは「主よ、あなたのしもべをさばかないで下さい。なぜなら、あなたの眼から見れば、どんな人の生活も義とされることはないから」と言います。また、「もし彼らがあなたに罪を犯すなら、(罪を犯さないものはいない)」とも書いています。私たちはみな不浄なもののようであり、私たちの正義は汚いぼろのようなものです。神ひとりのほかによい者はない、とキリストも言っています。欲しない悪を私たちは行なってしまう。多くのことで私たちはみな過ちを犯します。罪がないと言えば、私たちは自分を欺くことになり、真理は私たちの中にありません。

(メノ・シモンズ「病める聖徒を慰める手紙」矢口以文訳 より)


「それを持って来なさい」

2009年11月15日 礼拝に備えて

マタイの福音書 14章13〜21節

 今日、キリスト教会は難しい時代を迎えています。
 ひとりの信仰の若い兄弟が日本宣教150周年の大会に出席して驚いていました。日本を代表される先生方が異口同音に今はキリスト教会にとって難しい時代だと言っておられたというのです。
 自分はクリスチャンになって日も浅く、この世のことしか知らないけれど今確かにこの世でも難しい時代で、かつ自分も今はうまくいっていないけれども、まだやり方によって可能性があると信じている。キリスト教にはもっと可能性があるであろうと思っていたので、それが意外であったというのです。
 確かに私たちの教団も自立のボーダラインと思われる礼拝出席者40人の教会が約20教会、全体の三分の二に達しています。教団全体で毎年30名ほど礼拝出席者が減少しています。
 こんなとき、この主による奇跡は私たちに大切な真理を教えてくれるのではないでしょうか。
 この主による5000人の給食の奇跡は4福音書に皆でてきます。
 この奇跡は自分にはできないが主には何でもできないことはないという信仰がこの奇跡を生んだことを教えています。
1. 使徒アンデレに見る信仰
2. モーセに見る信仰
3. キリストは無力な者の信仰を通して働く
 以上の学びをいたしましょう。

江藤寿彦(広島北教会牧師)


「権威ある者のように」

2009年11月8日 礼拝に備えて

民数記 16章1〜19節

 ものすごい地響きとともに、地面が割れ、その深い裂け目の中に、神に逆らう人々が絶望の叫び声をあげながらのみ込まれていくという、恐ろしい神罰の情景が描かれている民数記16章。大規模な災害や人類の危機を描く映画のワンシーンを見るような聖書箇所ですが、ここから学べることは、神のさばきそのものではなく、指導者モーセとアロンに逆らって立ち向かったコラ、ダタン、アビラム等と会衆たちの中にあった霊的な罪の問題、そしてそれに対処するリーダーのあり方が示されているのです。

1、コラの反逆は、神の与えられた権威と賜物とを否定するという罪でした(3〜11節)。
2、ダタンとアビラムの反逆は、神の導きとご計画とに逆らう罪でした(12〜14節)。
3、イスラエル人の会衆の一部の人たちは、神のさばきを否定する誤りを犯しました(41〜50章)。
4、モーセとアロンは、ひれ伏して、自らに与えられた主からの立場を確認しつつ、神に祈りました(4、22、45節)。
5、モーセとアロンは、最終的な判断とさばきは神がされることとして委ねました(5節)。

 あらゆる権威が否定され、失われているような現代社会の中にあって、神の偉大なご権威と御力、聖書のことばの権威を、私たちは再確認をし、決して侮ることなく、心から従う一人一人でありたいと願います。  

− M.F.−


「主にある関係」

2009年11月1日 礼拝に備えて

エペソ人への手紙 6章5〜9節

 おはようございます。あいかわらずインフルエンザが猛威をふるっていますが、主の偉大な力によって、すべてが益と変えられるように祈りましょう。また、体調を崩しておられる方々に、主の癒しがあるように祈ってまいりましょう。
 今朝の箇所は、主人と奴隷の関係について語られています。新約聖書が記された当時、多くの奴隷が存在していました。少なからずその中からイエス・キリストを信じて、教会の輪に加えられていきました。そのような状況下で、クリスチャンでありながら、奴隷としてどのように歩んでいくべきかを学ぶ必要がありました。この真理は、21世紀の社会において働く者にも適用することができます。また、信仰者である雇用主にも当てはまります。
 また、エペソ6:5〜9の真理は、単に社会での関係だけではなく、キリストの教会を建てあげる中で、立場の違う者同士がどのような基準で関わり合うべきかを示しています。
 教会が一致しキリストの栄光を放つために、この箇所から共に学び、共に真理を実践していきましょう。

−  H.K.−


「いのちのことばを握って」

2009年10月25日 礼拝に備えて

民数記 15章37〜41節

 今回より、再び民数記を通して、神様の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。この書の内容を思い起こしていただくために、全体の流れを下記に略記します。

 *1〜14章  旧世代  シナイからカデシュへ
 *15〜20章 転換期  荒野放浪の約40年間
 *21〜36章 新世代  カデシュからモアブの平原へ

 上記の通り、この15章から、まさしく荒野の旅が始まるのです。約束の地へ向かう民に対して、神はまずその備えとして律法規定を繰り返されました。E・H・メリルという旧約学者が言うように、この15章は約束の地に入った時のための神の民の「リハーサル」でした。

 本日は特に、その中でもユダヤ教徒によって最も重要とされるシェマ(聞きなさいの意で、信条のような祈りの聖句)の一部となっている箇所(15:37〜41)を中心に学びたいと思います。
 上衣の着物の四隅のふさ(ヘブル語でツィツィト)は、青いひもを付けるように決められており、それは彼らが神の御心を絶えず覚えて歩むためのものでした。

1、私たちも絶えず神を心の中心に据えて歩むように導かれています。
2、私たちも絶えず神の御言葉(戒めと励まし)を思い起こさねばなりません。
3、私たちも絶えず祭司の王国、聖なる国民であることを思わなくてはなりません。

− M.F.−


「主に喜ばれる関係」

2009年10月18日 礼拝に備えて

エペソ人への手紙 6章1〜9節

 おはようございます。今朝も主を礼拝し、主の真理と恵みのうちに留まり、祝福された聖日となるように、主にあって期待していきましょう。
 今朝のメッセージ箇所は、親子と職場の関係について語っています。親子の関係とはいつの時代も「思い通りにいかない」というのが悩みの種のようです。もちろん、これは夫婦や他の人間関係においても同じことが言えます。
 エペソ人への手紙にこのような記述があるということは、キリストの教会を建てあげるには、家庭と職場でいかにして主と共に歩むかが大切な要素になっていることを物語っているように思います。週に一度の教会に行く日だけでなく、人生のほとんどを過ごす家庭と職場 (若しくは学校) にあってどうあるかを考えてくださればと思います。
 人間関係の土台は「主に従うこと」です。相手との距離感や具体的な対応だけに目を向けがちですが、自分自身の心の状態を正しく知ることも大切です。どんな完璧な人間でもすべての関係において良好な関係を築くことは無理でしょう。しかし、主を見上げることができた時に、解決の糸口が示されます。私たちを導くお方に心を向けて祝された日々を送りましょう。

−  H.K.−


「神に遣わされたことを知る人生」
聖書的人生観(7)

2009年10月11日 礼拝に備えて

創世記 45章1〜15節

 ヨセフという人物を通して見て来ました聖書的人生観は、本日の聖書箇所をもって結論を見たいと願っています。創世記45章は、涙、涙、涙の場面です。
 2節でヨセフは「声をあげて泣いた」とあります。17歳でエジプトに奴隷として連れて来られてから、20年以上が経過しこのとき39歳になっていました。彼はこれまで、どれほど涙を流してきたことでしょう。幾度も苦しみもがきながら、心の中で泣いたことでしょうか。しかし、45章の涙は、最高の涙となりました。自分を売った妬みと罪に捕われていた兄弟たちが、神に取り扱われ、ユダの態度に代表されるように、全く別人になっていたことがわかったのです。
 一族との和解、そして喜びの再会が、神によって導かれたのです。彼は自ら「私はヨセフです。」と名乗ると、重要な語りかけを兄弟たちに伝えました。
 5、7、8節で3回「神は、私をここに遣わされた。」と明言しました。ヨセフは神のご計画の下に全てのことを見ていました。ここに自分中心ではない、神中心の聖書的人生観が示されているのです。
1、信仰によって神のご計画を悟る者は、和解する力を得ることができるのです。
2、信仰によって神のご計画を悟る者は、置かれた状況の中で神の最善を信じることができるのです。
3、信仰によって神のご計画を悟る者は、神から与えられた使命を自覚し、行動することができるのです。

−  M.F.−


「誠実さの大切さ」

2009年10月4日 礼拝に備えて

マタイの福音書 21章28〜32節

 人類を創造された御方の一番の関心事は、何でしょうか。
 それは、私たち人間がどんな心でこの創造者なる御方に接しているかということです。
 神から遣わされた神の子イエス・キリストは父なる神の代理人でした。
 彼に対する人々の態度は、彼の父親である御方に対する態度として見なされます。
 キリストは、彼と彼を遣わされた神に対する人々の態度に2種類があることを一つのたとえで明らかにしました(マタイ21:28〜30)。これら2種類の態度は、たとえでは、ある父親の依頼に対する2人の息子たちのとった態度として説明されています。
 一つの態度とは、言葉では父親を喜ばせながら、行動では父親の依頼を拒否して父親を悲しませる一人の息子の態度です。 そして、キリストはこの態度はユダヤ人指導者の取った態度であるとしました(21:31〜32節)。
 もう一つの態度とは、言葉では父親を悲しめたものの、悔い改めて父親の依頼を実行して父親に喜んでもらったもう一人の息子の態度です。
 そして、キリストはこの態度は、ユダヤ人一般から見下げられ軽蔑されていた取税人や遊女たちの取った態度であるとしました(21:31〜32)。
 神は、私たちの幸福な人生のために、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じて、罪の赦しを受けるように求められました。これに対する私たちの態度は、私たちの永遠を決定することになるのです。皆様は、今朝どのような態度を示されますか。

−  T.M.−


「シャロームへの導き」
聖書的人生観(6)

2009年9月27日 礼拝に備えて

創世記 43章1〜25節

 今年も早9月の最後の聖日を迎え、夏が終わったとの思いを感じています。今年の夏を振り返ると、私自身は過去の太平洋戦争について、いつもの年以上に考えさせられました。それは、戦死した祖父について調べる機会を得たからです。そこから戦争の悲惨さや恐ろしさ、同時に平和であることの幸せを、足りないながらも感じました。
 
 旧約聖書の中のよく知られた言葉に「シャローム」という語があります。平和という意味です。シャロームは単に戦争や争いがない状態を指すだけではなく、心の安らぎや、健康など、神に祝福されている状態を霊的に示す際にも用いられる表現です。
 新約聖書では、同じ表現をギリシア語で「エイレーネ」という語が使われます。パウロは手紙の宛先のクリスチャンに次のような挨拶を度々送っています。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安(エイレーネ)があなたがたの上にありますように。」(ローマ1:7など)。
 本日の創世記43章は、兄弟たちのエジプトへの2回目の旅が記されています。飢饉が激しさを増す中、シメオンを取り戻すためにも、末弟ベニヤミンを連れて行かなくてはなりません。家長ヤコブも意を決してベニヤミンとともに兄弟たちを遣わします。エジプトに着き不安と恐れでいっぱいになっている兄弟たち(18節)に、ヨセフの家の管理者から「安心しなさい(ヘブライ語シャローム)。恐れることはありません。」(23節)と告げられるのです。見えざる神が彼らを真のシャロームの中へと導いておられるのです。

−  M.F.−


「イエス・キリストの絶大な権威に基づく歩み」

2009年9月20日 礼拝に備えて

マタイの福音書 21章18〜27節

 私たちの信仰生活の根底にあるものは、イエス・キリストの愛と権威であるといえます。キリストの私たちに対する愛は、ご自分の命を捨ててくださったほどのものでした(ヨハネ3:16)。このキリストの絶大な愛に私たちの救いは基づいているのです。そして、この愛の方は、絶大な力、権威をお持ちの方なのです。今日の聖書の箇所(マタイ21:18〜27)から、このキリストの権威について学びましょう。
 先ず第一に、キリストの権威は空間と時(歴史)を支配するものです。
 いちじくの木が、キリストの命令によって、たちまち枯れてしまった(18〜19節)という事件は、単に植物界を意のままに動かすことのできるキリストの権威のみではなく、キリストはこの事件によってイスラエルの将来の運命をある意味において支配しておられることを示しました(エレミヤ8:13参照)。私たちクリスチャンの祈りは、このキリストの権威に訴えてのことであることを良く知る必要があります(20〜22節;ヨハネT5:14;ヤコブ4:3参照)。
 第二に、キリストの権威は全知全能の神からのものです。
 ユダヤ教の指導者たちからご自分の権威の出所を聞かれた時、キリストは、神からの権威で預言者の働きをしていたと民衆に思われていたバプテスマのヨハネの例を取り上げました(23〜25節)。そして、彼らの答えを待って、ご自身も神からの権威で一切のことをしていると告げました(25〜27節)。
 私たちの救いと日々の歩みはこの御方の権威の下にあることを肝に銘じましょう。

−  T.M.−


「キリストを愛し、キリストに従う」

2009年9月13日 礼拝に備えて

エペソ人への手紙 5章22〜33節

 おはようございます。今朝も主を礼拝し、主の真理と恵みのうちに留まり、祝福された聖日となるように、主にあって期待していきましょう。
 今朝のメッセージ箇所は、夫婦に関することが記されています。内容は非常にシンプルで「夫は妻を愛しなさい、妻は夫に従いなさい。」ですが、この箇所では、夫婦の関係がキリストと教会の関係に照らし合わせて語られています。ですから、正しい夫婦の関係(もちろん、他の人間関係もですが)を学ぶには、キリストを抜きにしては語れないのです。
 今朝のメッセージ箇所は、内容を理解するのは簡単ですが、実践するのが非常に難しい箇所になっています。真理を学ぶ時にキリストが不可欠なように、真理を実践する時にも、キリストの助けが不可欠となります。主に不可能なことはありません。真理を求めて、みこころを行いたいと願う人に主は必ず働いてくださいます。
 今一度、主の真理の素晴らしさを、信じる者に働く主の助けを心にとめて、祝された歩みを続けて行きましょう。     

−  H.K.−


「成長の道筋」
聖書的人生観(5)

2009年9月6日 礼拝に備えて

創世記 42章1〜28節

 聖書の最初の書物、創世記から、ヨセフとその家族(あるいはヤコブ一族)の歩みを辿ってきましたが、話はいよいよエジプトのヨセフと、カナンにいる家族が再会するクライマックスへと進んでいきます。
 このヨセフとその家族の歩みは、一つのことを通して導かれてきたことを改めて確認したいと思います。それは「夢」です。
 本日の聖書の箇所42章にもそれが示されています。
「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して」(42:9)
 ヨセフは神から見せられた夢の啓示を、心の中で大切に守っていました。37:5〜11をどうか確認してください。畑の中のヨセフの束がまっすぐに立ち、兄たちの束が周りに来ておじぎをする、というものです。
 この預音ともいえる内容は、39章では、「主はヨセフとともにおられ」(39:2,3)という表現で明らかにされていました。
 事実このことは、ヨセフがポティフアルの家の筆頭執事となること、監獄の中の囚人のかしらとなること、そして最終的には、エジプトの宰相となることで、段階的に導かれたのです。
 以下教えられるべき要点です。
1.ヨセフの歩みは、イエス・キリストの予型(ひながた)を示すものでした。
2.神に立てられた支配者としてのヨセフは、兄弟たちの心を試して、自らを振り返らせました。
3.ヨセフは、兄弟たちの心を試すことで、彼らが罪を認めることへと導いたのです

−  M.F.−


「人の歩む道」

2009年8月30日 礼拝に備えて

詩篇 16篇11節

 おはようございます。今朝は教会に来てくださりありがとうございます。今朝の礼拝はグッドニュースサンデーと称しまして、初めての方や、教会に来られて間もない方等への日曜日となっております。ちなみに、グッドニュースは日本語では福音(ふくいん)と訳されますが、福音とは英単語が示すとおり「良い知らせ」という意味です。
 世界には様々なニュースが流れますが、それは私たちにとって必ずしも良い知らせとは限りません。しかし、たくさんのニュースに紛れて本当に素晴らしいニュースが伝えられるのです。世の中には様々な教えがあります。キリスト教の聖書も数ある教えの中のひとつです。そして、聖書自身の中にもたくさんの教えがあります。

 今朝は、そんなたくさんの教えの中から、本当に良い知らせであるトップニュースをひとつお伝えしたいと思います。聖書の他の教えを知ることも大切ですが、何よりも大切なこのトップニュースを見逃すことのないようにお気をつけください。そのトップニュースとはいったい・・・?それは今朝の礼拝メッセージの中に出てきますので、お聞き逃しのないようにご注意ください。

−  H.K.−


「励ましからはじまる主の御業」

2009年8月23日 礼拝に備えて

ヘブル人への手紙 10章24〜25節

「キリストの忍耐をもって戦っている戦友同士として、あなたがたに訓戒します。もし信仰深い心で、平和を生きようと望むなら、本物のクリスチャンの愛をあなたがたの中に育て上げてください。なぜなら、その愛があらゆることの中でどのように行動するか、それに、それがどんな性質や性格であるか、などをあなたがたは疑いもなく知っているのですから。そうです、もしあなたがたが愛の支配に身を屈め、自発的にその行政と統治に協力するならば、神の聖なる平安が確実に、絶えることなくあなたがたの中に留まり、日々成長し、大きくなるでしょう。愛は非難することなしに行動し、振舞い、神に対して罪を犯したり、兄弟を怒らせたり、困らせたり、悲しませたりしないように言葉と仕事において慎重です。愛はいつも勤勉であり、全くの正義そのものとして隣人の前に出て、教え導きたいと熱望します。(中略)もしたとえ、言葉によってであれ、行為によってであれ、不当な仕打ちをされたとしても、愛は忍耐をもってこらえ、復讐はしません。それは情け深く、真理を愛します。ですから、愛によっては誰もひどい目にあわないし、だまされることもありません。それは親切で優しい。謙りと分別とをもって他の人々を遇しますし、敵である人々をも同じように扱います。それで、このように喜んですることのために、多くの人々を真理に導き、引きつけ、また、敵意ある人々をも真理に至らせて、イエス・キリストにおいて和解させます。」          

(メノー・シモンズ「プロシアにある教会への訓戒」矢口以文訳 より)


「真の柔和さと明確な倫理観」

2009年8月16日 礼拝に備えて

マタイの福音書 21章12〜17節

 イエス・キリストはろばの子に乗って「柔和な王」として、エルサレムに入城されました。そして、エルサレムの一番重要な場所である宮 (神殿) に入って行かれました。そこで、商売している人々やお金を両替している人々を厳しく追い出し始めました (マタイ21:12) 。
 柔和な御方が、どうしてこうも激しく行動されたのでしょうか。キリストは冷静さを失ってしまったのでしょうか。いいえ、キリストは明確な原則と倫理に立って、この行動を取ったのです。
 第一に、キリストは、神によって与えられている神殿の機能をみことばから確信しておられました (13節)
 イザヤ書は、神殿はユダヤ人にとっても異邦人にとっても、神に心を向け祈り礼拝する場であることを語っています (イザヤ56:7) 。しかし、その場が不正な利得を追求する場と化することをエレミヤが預言していました (エレミヤ7:10, 11) 。
 第二に、キリストは、神殿において行われるのは、ご自身の癒しと解放の業 (14節) やご自身をほめたたえる賛美 (15、16節) であるとされました。
 イエス・キリストはここでも、この確信を詩篇のみことば (詩篇8:2) 他から得られました。
 今日、これらのキリストの神殿に関する倫理は、私たちクリスチャンの教会に関する倫理ともなるのです。キリスト者は、柔和な生き様の中に、確固たる礼拝倫理を有しているのです。

−  T.M.−


「運命ではなく神の摂理」
聖書的人生観(4)

2009年8月9日 礼拝に備えて

創世記 41章1〜16、25〜36節

 ヨセフの人生を思うとき、必ず思い浮かぶ事がらがあります。それは「摂理」ということです。一見、運命によっていたずらに弄ばれているかのように見える彼の生涯ですが、確かにそこには生きて働かれる神の力強い御手が示されているのです。
 摂理とは、「神が被造物を保持し、その意図する目的へと導く、神の継続的な活動」(M.エリクソン)と定義されています。英語のProvidence(摂理)は、ラテン語のプロビデオー(先に見る)という語から来ています。神がこれから起こることを 予め知って、人間など被造物を守り、ケアされ、ご自身の計画の中で最善の導きをしてくださるとの信仰です。それに対して運命論は、人格的な神の存在を認めないので、マイナス思考になると、あきらめと恐怖に人を陥れます。しかしヨセフは全世界におよぶ神の絶対的なご支配と、自分に対する神の変わりなき愛と導きとを確信していました。

 本日の箇所から学ぶポイントは次の通りです。
1、ヨセフは苦難を通して、良き実りを体験しました。
2、ヨセフは夢の啓示を通して、神のご計画と自分の人生の繋がりを見出しました。
 ヨセフの歩みに見られる摂理信仰は、シヴィラ・ダーフィー・マーティンの歌詞(新聖歌311番の原詞)によく表されているように思います。
「何が起ころうともろうばいするな。神はあなたを守ってくださる。彼の愛の翼の下にとどまれ、神はあなたを守ってくださる。」

−  M.F.−


「「獄中十年」
聖書的人生観(3)

2009年8月2日 礼拝に備えて

創世記 40章1〜23節

  ロシアの作家ドストエフスキーは、若い時代にシベリアで4年間獄中生活を送り、その時の経験を「死の家の記録」という書物にまとめました。彼は、監獄は「死の家」であり、「地獄」「闇の世界」と表現しています。ヨセフの獄中生活の場面が、本日の聖書箇所です。
 ヨセフは、ご存じのようにポティフアル夫人によって陥れられ、無実の罪で獄中の人となりました。いくつかの聖書の記述(37:2,39:1,41:1,46)から、おそらくヨセフは十年以上に及ぶ牢獄での生活であったと思われます。日本でも冤罪で刑務所生活を9年近く送られた菅家利和さんの再審が決まったことが、最近報じられ話題になりました。
 しかし、このような過酷な状況に置かれながらも、ヨセフの歩みは神への揺るがない信仰に満たされていました。

 ヨセフの信仰は、先ず第一に、彼の夢の解き明かしに表れています。「それを解き明かすことは、神のなさることではありませんか。」(8節)夢を解き明かす力も、人の将来についても、すべてを知っておられ、導いておられる神の御手の中にあることを彼はよく知っていました。

 ヨセフの信仰は、第二に、その優しい振舞いに表されています。「なぜ、きょうはあなたがたの顔色が悪いのですか」(7節)神の愛と恵みを体験しているのでなければ、どうして監獄で他の人たちを配慮する気持ちを持つことができるでしょうか。ヨセフの温かい心はともにおられる神の慈しみから生まれたものです。

−  M.F.−


「神がともにおられる恵みに生きる」
聖書的人生観(2)

2009年7月26日 礼拝に備えて

創世記 39章1〜23節

 住み慣れた家や家族から引き離され、見知らぬ地エジプトへ、ひとりの奴隷として連れて行かれたヨセフ。知る人とてだれもなく、頼れるものも何も持たず、ただその身一つで生きてゆくより他にないという厳しい状況の中に置かれました。
 今回の聖書箇所の39章は、エジプトの廷臣ポティファルの家での全財産を任せられるという最初の部分(1〜6節)と、濡れ衣により監獄に入れられたヨセフが、そこでもすべての囚人を任せられるという終わりの部分(21〜23節)があり、その二つに挟まれて、ポティファルの妻の誘惑事件(7〜20節)が描かれています。
ポティファル家の管理者となるヨセフ(1〜6節)
ポティファルの妻の誘惑に遭うヨセフ(7〜20節)
監獄での管理者となるヨセフ(21〜23節)
 この章でヨセフの遭遇する出来事を通して示され語られていることは、その状況に関わらず「あなたは何をもって人生を歩みますか?」という問いかけです。
 @あなたは試練や失望の中に置かれたとき、何を支えに生きることができますか(1〜6、21〜23節)。
 Aあなたは誘惑に遭遇するとき、何をもってそれに抵抗することができますか(7〜20節)。「主が彼とともにおられ」(2、3、21、23節)という表現のくり返しが示すように、主とともに生きるという恵みこそが、あなたの歩みを確かに堅くすることができるのです。

−  M.F.−


「賢き者のように」

2009年7月19日 礼拝に備えて

エペソ人への手紙 5章15〜21節

 おはようございます。様々な思いをすべて主に委ねて、まっすぐな心で主を礼拝しましょう。礼拝前にこれを読まれたなら、この1週間を振り返って、神様がどれだけ恵みを与えてくださったかを数えてみてください。そして、感謝の祈りを捧げましょう。そうすることによって、心から主を賛美することができるでしょう。
 
 今朝のメッセージはエペソ5章から「賢さ」について語りたいと思います。賢者と呼ばれる人は数多くいますし、私たちの周囲にもそう呼ぶに相応しい人がいるのかも知れません。しかし、ここで注目するのはこの世の賢さではなく、聖書の語る真の賢さです。私たちが賢い者となるためには、まず、どのような者が賢い者なのかを知るところから始まります。そして、その真理を実行することによって賢い者と呼ばれるに相応しくなっていくのです。既に、聖書的な賢さを身につけている人は今朝のメッセージは必要がないのかも知れませんが、それゆえにこの真理が語られる重要性を理解しておられると思います。
 
 私たちは本物の賢さを身につけているでしょうか?もう一度主の前にひざまずき、真理のことばを心に留めましょう。

−  H.K.−


「ろばの子に乗る柔和な王」

2009年7月12日 礼拝に備えて

マタイの福音書 21章1〜11節

 イエス・キリストの生涯の最後の3年半は「公生涯」と言われています。その前半は北方のガリラヤ地域中心の働きでしたが、後半の活動は、南のユダヤの地域に移り、神殿のあるエルサレムでの働きに集中するようになります。本日聖書箇所はこのエルサレムへの入城の場面を描いています(マタイ21:1〜11)。

イエス様は、神によって王として油注がれたものとして(メシヤ、或いはキリスト)、この世に遣わされました(マタイ2:2)。この王なる御方がご自分の都に、ろばの子に乗って入城されました!旧約聖書は、この御方を「柔和」な王として紹介しています(5節)。この御方の「柔和さ」は、どのようなものだったのでしょうか。

(1)神と神のことばに徹底して聞き従がう柔和さであった。  弟子たちと旅をして、エルサレムに近づく中で、イエス・キリストは自分がどのようにしてエルサレムに入城するのかをご自分の父なる神のことばからはっきり確信されました。そして、それに完全に従がうように行動しました。

(2)ご自分と関わる生き物、人々に配慮し、優しく振る舞う柔和さであった。  子ろばに乗られるイエスは、その母ろばをも連れてきています。聖書は、イエス様は母ろばにも子ろばにも乗られた(7節)と記しています。

(3)人を極みまで愛し、罪の赦しのために命を捨てて救いの道を開いた柔和さであった。    

−  T.M.−


「家族崩壊の中にも働く神の御手」
聖書的人生観(1)

2009年7月5日 礼拝に備えて

創世記 37章1〜4節、18〜30節

 今回より数回にわたって、「聖書的人生観」というテーマで創世記のヨセフの話を聖書講解させていただきます。(民数記の後半は、このシリーズのあとに再開いたします。)
 このシリーズの目的は、聖書が教える「人と人の絆」や、「家族関係(親子・兄弟)の問題と修復」について知ること、そして何よりも「神の導きの中にある人生」について学ぶことにあります。
 特に結婚された方、新しい家族が与えられた方、教会という信仰の家族に加わろうとしている方、そして自らの人生に神の導きを求めておられるすべての方に、族長ヨセフの話は多くの生きるヒントを与えてくれることでしょう。
 第1回目の聖書の箇所は、家庭の危機と崩壊です。一見平和に見えていた家庭が、突如音を立てて崩れ落ち、悲しみと痛みの中に沈んでいく。ヤコブの一家に起こった愛と憎しみの葛藤は、青年ヨセフを中心にして綴られていきます。
 学びの焦点は、下記の二点に向けられます。
(1)ヨセフとその家族の人間関係
 父親の偏愛とヨセフの思慮の欠けた振る舞い故に、兄たちの嫉妬から来る怒りの火が燃え上がります。そしてその憎悪は殺意にまで達しました。
(2)ヨセフの夢が示す神との関係
 ヨセフの夢は神からの預言でした。これはヨセフの特別な賜物とはいえ、家族の他の者には神の語りかけや幻が示されていなかったのでしょうか(37:11)。

−  M.F..−

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