「待ちつつ急ぎつつ」
2010年6月27日 礼拝に備えて
使徒の働き 1章12〜26節
「待ちつつ急ぎつつ」という大仰な題を掲げました。この言葉は、ヨーハン・クリストフ・ブルームハルト牧師の愛した言葉です。彼は、20世紀最大の神学者カール・バルトに福音的な信仰の感化を与えた人物として知られています。
ペテロ第二3章12節にから出されたこの表現の意味するところは、私たちは主の来臨の日を待ちつつ、同時にその到来を覚えて急を要するように準備しなくてはいけない、ということです。
主が来られる日を待つ者は、一切が旧態依然とした状態として続くかのように無気力や怠惰のうちに過ごすことなく、その終わりの日に向かって、急ぐかのように、その実現を確信して歩むのです。
本日の聖書箇所、使徒の働き1:12〜26節を見ると、まさに「待ちつつ急ぎつつ」の歩みをキリストの弟子たちが実践していることがわかります。祈りをもって、御父の約束である聖霊の降臨の日を待ち、使徒職の欠員補充を速やかに行ないました。
1、聖霊降臨に備えて、彼らは心を合わせて、祈りに専念していました(1:12〜14)。彼らは昇天されたイエスのお言葉を思い起こしながら、地の果てにまでキリストの証人となる使命を覚えて、ひたすら祈りに専念したのです。
2、聖霊降臨に備えて、彼らは使徒職の補充を行ないました(1:15〜26)。使徒職は、初代教会におけるリーダーシップを担っていました。主イエスを親しく知っている人の中から、祈り、をもって選びました。
− M.F.−
「イスラエルの裁きと救い」
2010年6月20日 礼拝に備えて
マタイの福音書 23章13〜39節
イエス・キリストの公生涯の終わりごろ、十字架への道が目前に迫っているとき、当時のユダヤ人指導者に対するキリストのお言葉はまことに厳しいものがあります。マタイの福音書(23:13〜39)には、パリサイ人、律法学者たちを「わざわいだ」とキリストは7度にわたって非難しておられます。このキリストのことばは、彼らに永遠の滅びの裁きが下ることを意味しています。なぜ、彼らはここまで陥ってしまったのでしょうか。
1. 彼らは、イエスをキリストと信じないばかりか、信じようとする人々を妨害して救いの道から遠のけている(13〜15節)。
2. 彼らは、誓いにおいて目にみえる黄金や供え物に目がくらみ、目に見えない神ご自身を蔑んでいる(16〜22 節)。
3. 彼らは、律法の実践を正しくせず、本末転倒を繰り返している(23,24 節)。
4. 彼らは、儀式的な外面においては清いように見せかけ、内面は強奪、放縦、汚れに満ちている(25〜28 節)。
5. 彼らは、昔から神の真実な預言者を殺してきたが、今はキリストであるイエスを殺そうとしている(29〜35 節)。
キリストは、彼らに(イスラエル)に裁きが来るとはっきりと語られました(36〜38 節)。
このおことばの成就は、紀元70年に具体的に現われなお今日までも続いていると考えられます。神とキリストに背き続けることは、どれほど深刻なことなのでしょうか。
しかし、神はなお憐れみ深く、この民のために大いなる回復の道をイエス・キリストによって備えておられるのです(39 節)
− T.M.−
「メシアの系譜」
2010年6月13日 礼拝に備えて
歴代誌第一 2章1〜3節
おはようございます。新しい朝に感謝して心から主を礼拝しましょう。
今朝はイスラエル部族の中からイエス・キリストヘと繋がるユダ部族の歩みに目を向けますが、T歴代誌2章の冒頭ではユダの家系における罪の歩みが記されています。
誰もが罪を犯す弱さを持っていますので、裁き合うことは避けるべきですが、罪が悔い改められずに正当化されることは、それ以上にあってはならないことです。
この機会に、主を信じる者としてどのように歩むかを考えてみてください。バビロン補囚後の人々に過去の過ちを繰り返さないために、罪の歩みが記されています。キリストの教会を建てあげるためには、どのようなことを避けるべきなのかが、このユダ部族の歩みの中に記されています。
誰もが祝福された信仰生活を歩みたいと望んでいるはずです。しかし、人間の様々な欲望や神様を見上げない言動によって、祝福は失われていきます。神様が与えようとしておられる素晴らしい祝福を逃さないためにも、聖書の真理に目を向けて、少しでも実践していくようにこころがけましょう。
− H.K.−
「主イエスのミニストリー」
2010年6月6日 礼拝に備えて
使徒の働き 1章1〜11節
今回から、新約聖書の「使徒の働き」より、主のみ言葉を聴きたいと思います。
「使徒の働き」は、新約聖書中、5番目の書で、4つの福音書の後に置かれています。
旧約聖書でいうと、モーセ五書(律法)の後に位置するヨシュア記に相当する書です。
ヨシュア記は、モーセによって示された神のみ言葉の約束が、カナンの地でどのように広がり成就していく様が描かれていますが、「使徒の働き」においては、主イエスによって与えられた神の御国の宣教が、歴史的にどのように進展していくのかを知ることができます。
しかし、それは「使徒の働き」というタイトルにあるように使徒たちによって進められたというよりも、キリストご自身が、また聖霊がお働きになられたことを、私たちは知ることでしょう。ゆえに、この書は、実に「聖霊行伝」と言われているのです。
有名な説教者キャンベル・モルガン師は、この「使徒の働き」を「生けるキリストが、そのからだなる教会を通して、聖霊によって継続される行いと教えの書」と言っています。
本日の箇所は、献辞と序文のところです。
1.「テオピロ」のために、福音書記者ルカを用いられたところの聖霊の働きが示されています。(1〜 2節)
2.イエス・キリストは、今も生き、聖書によってその宣教の働きを進められていることが示されています。
− M.F.−
「時代を越えたメッセージ」
2010年5月30日 礼拝に備えて
ローマ人への手紙 10章13〜17節
おはようございます。今朝はグッドニュースサンデーと称して、新しく来られた方やクリスチャンではない方向けの礼拝となつています。そうは言つても普段の礼拝と変わらない部分もありますので、わからない言葉や表現があると思われますが、少しずつ教会のことを理解してくださったらと思います。
今朝のメッセージのコンセプトは「伝える」ということです。私たちは日々の生活の中で、多くの情報を耳にします。それらは、誰かが何かのメッセージを伝えたくて発信しているのですが、受け手に伝わらなければその目的は達成されません。
多くの人が「誰かに伝えたいメッセージ」を心に抱いているのではないでしょうか?愛する人やお世話になっている人、他にもあるでしょうが、伝えたいメッセージを相手が受け止めてくれると本当に嬉しいものです。
今朝、教会に来られた方にも、ぜひ知って頂きたいメッセージがあります。それは聖書に記されている人生に大きな影響をもたらす良い知らせです。今までに聞かれたことがあるかも知れませんが、もう一度、先入観なしに聖書のメッセージに耳を傾けてくださればと思います。
− H.K.−
「神はわれらの避け所」
2010年5月23日 礼拝に備えて
民数記 35章1〜15節
民数記の終わりの部分から、主の御言葉を聴きたいと思います。どのような書物でも、その最初と終わりは、その書がどんな目的をもって書かれたかを知るために、またその結末や結論をよく知るために、注意して目を留めるべきところです。民数記はどうでしょうか。
一番最後の節にはこう記されています。
「これらは、エリコに近いヨルダンのほとりのモアブの草原で、主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである。」(36:13)
では、反対に一番最初の箇所ではどうなっていたでしょうか。
「人々がエジプトの国を出て二年目の第二月の一日に、主はシナイの荒野の会見の天幕でモーセに告げて仰せられた。」(1:1)
地理的には「シナイの荒野」から「モアブの草原」まで、そして時の経過は39年間に及びました。この書のヘブライ語タイトルが「荒野にて」であったことを思う時、約束の地に限りなく近い「草原」に辿り着いたことは、一つの結論であり到達点であることを示していると言えるでしょう。
そしてその直前に置かれている35章において、「レビ人の町」と「のがれの町」という規定が語られていることもとても意義深いことです。なぜなら「のがれの町」という制度の中に、人間の罪の現実を示され、私たちの避け所はどこにあるのかを再度確認するように教えているからです。私たちの「のがれの町」は主なる神であり、イエス・キリストであり、そして教会はその役割を期待されているのです。
− M.F.−
「恵みの旅程」
2010年5月16日 礼拝に備えて
民数記 33章1〜11節
民数記の講解も終わりに近づきました。本日の聖書箇所33章からのちは、おもに相続地に関する内容で、34章は相続地の境界線のこと、35章はレビ人の住む町とのがれの町の規定、そして最後の36章も女性の相続地継承に関する細則です。
この終わりの部分にあたって、民数記は、これまでのイスラエルの民の歩んだ旅程を記しています。
(1)ラメセスからシナイの荒野まで(5〜15節)、
(2)シナイの荒野からカデシュまで(16〜40節)、
(3)カデシュからモアブの草原まで(41〜49節)
これらは単なる旅の記録というよりも、神の民としての歩みの記憶を辿るものでした。民数記の主題は荒野の旅であり、その旅路での数々の出来事や、神様の導きを振り返ることで、これからスタートする新しい地(約束の地)での歩みを展望するものでした。この書に続く申命記では、この「回顧と展望」というテーマが貫かれてくことになります。それは「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。」(申8:2)との御声に聴き従うためです。
1. この旅程表は、旅の出発点である神の御業に目を向けています(1〜4節)。
2. この旅程表は、罪、失敗、苦き経験から民に目をそむけさせず、主の訓練を想起させるものでした(5〜49節)。
3. この旅程表には、神が民を見捨てることなく、恵みをもって導かれたことを証ししています(5〜49節)。
− M.F.−
「人の偉大さの尺度」
2010年5月9日 礼拝に備えて
マタイの福音書 23章1〜12節
人間は社会の中で生きています。人は、社会を構成する様々なグループである、家庭、学校、職場、地域、国等に属し、そこでのルールに従って互いに関わりあって生活しています。この点では、昔も今も変わりはありません。イエス・キリストの生活の場であったユダヤ社会も同じでした。そして、当時は、会堂や神殿での宗教活動は人々の社会生活に大きな位置を占めていました。ユダヤ人の宗教生活は、旧約聖書に記されているモーセ律法に基づくものでした。ですから当然のことですが、民衆にモーセ律法を教えていた律法学者、パリサイ人と言われる人々は、社会の指導者でした。
キリストは、これらの宗教指導者について辛口の批判をしております(マタイ23:1〜12)。ご自分の弟子たちも将来は、キリスト教会の指導者になっていくことを知っておられたキリストは、反面教師としての律法学者、パリサイ人を通して大切な教訓を語られました。
@真理を教える立場に与えられた役割を正しく認識すること(3節)
A教える者が先ず真理に従って生き、模範を示さなければならない(3〜4節)
B人の目ではなく、神の目をいつも意識して語り、行動すること(5〜7節)
C社会的立場に関係なく、人は神の前で平等で価値あるものであることの徹底した意識を持つ(8〜10節)
D神が人に一番価値あるものとして見られるのは、愛である(11〜12節)
− T.M.−
「ヨルダン川を渡ろう」
2010年5月2日 礼拝に備えて
民数記 29章1〜11節
使徒パウロは、うしろのものを忘れ、ひたむきに前に向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(本日の開会成句)と、殉教の死を覚悟しつつ、獄中で語りました。
どうせもうすぐ死を迎えるのだから、ほどほどに過ごそうとは全く思わなかったのです。
本日の聖書の箇所には、ルベン族とガド族が、ヨルダン川の手前(つまり東側)で、約束の地力ナンに入らず、留まらせて欲しいと願ったことが記されています。イスラエルの民は、全員でカナンに入ることを目指して頑張ってきたのです。両部族は家畜を飼うのに適しているという理由だけで、それを果たさずに、ヨルダン川の手前で留まることを求めたのでした。
聖書注解者は語っています。「途中に備えられた良い地へ導かれたのは、それを最終目的地にするためのものではない。それは終わりに至るために必要な良い足場として、備えられたものである。」(佐藤陽二著「民数記」)。
事故のために全身麻痺の障害を背負いながらも、口先で絵筆を取り、多くの人たちに勇気と希望を与えたジョニー・エリクソン姉が、ある集会で講演した時、「身体に障害があるにもかかわらず、どうやって前進し続けてこられたのですか。」との聴衆の問いに対して、こう答えたそうです。「今こそわたしが神様のために戦える時なのです。 今こそわたしの永遠の物語の中で、実際に戦いに加われる時なのです。」
− M.F.−
「天地のハレルヤコーラス」
2010年4月27日 礼拝に備えて
詩篇 148篇1〜14節
イエスが復活された後、ペンテコステの日に、神は聖霊を遣わされました。聖霊は神の創造のお働きをともにされ、預言者たちに力を与え、聖書を霊感されました。この聖霊によって、神はキリストのからだである教会を確立されました。こうして教会は神の国を宣べ伝え、新しい創造を証しするものとされました。キリストを信じ受け入れるすべての人は、聖霊のバプテスマによって聖霊が注がれ、神の子どもとして聖霊の証印が押されます。イエスを主と信じ告白するすべての人は、キリストにあって新しく生まれたのです。クリスチャンは父なる神、子なる神、聖霊なる神の御名によって水のバプテスマを受けて、新しい契約の共同体に加えられます。彼らは恵みのゆえに信仰によって救われており、この世にあって敵対する様々な状況に直面しながらも、神の平和と愛に生きていくのです。
教会は神の新しい創造です。また世界に変革をもたらすもので、人類に対する神のご計画のモデルとなるように召されています。神の民である教会はすべての人に呼びかけて、人々が悔い改め、信仰決心へと導かれるように努めます。そして苦難の中にあっても主に忠実に仕え、正義が行なわれるように働きかけ、必要のある人々に惜しみなく分け与える者となるように勧めます。教会は和解の使節として、罪によって壊れてしまった関係を修復するために行動します。聖餐式を行なって、主の死を告げ知らせ新しい契約を喜び祝います。
(「メノナイトブレザレン国際委員会 信仰告白」より 一部表現の変更あり M.F.)
「受け継がれるもの」
2010年4月18日 礼拝に備えて
歴代誌 第一 1章27〜34節
おはようございます。今朝も全知全能の主を見上げて、心から礼拝を捧げましょう。
前回に続いて、T歴代誌の系図に目をむけてみましょう。今回は信仰の父といわれるアブラハムとその子イサク、そして孫のヤコブに注目したいと思います。この3名の生涯から学ぶべきことはたくさんありますが、今朝は「受け継がれるもの」というタイトルにあるように、彼らが受け継いだ良い面と悪い面を見てみたいと思います。
人間は多かれ少なかれ周囲の大人の影響を受けます。そして多くの場合は親の影響を受けます。ただ、遺伝子などの不可避な継承もあれば、財産や考え方など、自分で選んで継承することが可能なものもあります。そして、良い物を継承すれば自分にとって利益となり、悪い物を継承してしまえば自分にとって損となってしまいます。
神の家族である教会にも同じことが言えるのではないでしょうか?ただ、この世と違うのは、私たちの祝福は人からではなく神様からくるということです。人を通して祝福を受けますが、すべては神様から与えられるのです。神様から与えられる素晴らしい祝福を逃さないように、過去の信仰者から教訓を学びましょう。
− H.K.−
「今は恵みの時、救いの日」
2010年4月11日 礼拝に備えて
民数記 29章1〜11節
約40年の荒野の旅において、イスラエルの民の中で世代交代が起こっていきました。彼らはヨルダン川を渡るとすぐそこに約束の地があるという状況でした。神はモーセを通して、約束の地に入る準備として、再び教えを受け、礼拝する民としてのあり方を良く知っておかねばなりませんでした。
大切な区切りを迎える彼らにとって、継承されるべき教えが、28章以降に記されています。そして本日見ます29章もその続きです。
イスラエルに特別に定められたささげ物は、毎日ささげるささげ物、毎週の安息日のささげ物、毎月の第一日のささげ物が記され、加えて例祭のささげ物のことが述べられています。過越の祭、種を入れぬパンの祭、初穂の祭が続きました。29章に入ると、それに続いて、第七月の第一日として、新月の祭でラッパが吹かれます。そしてその第十日は贖いの日とされ、第十五日目は、仮庵の祭が行われるのです。
今日の私たちにとって、これら旧約聖書の時代の礼拝は、古い過去の中のあり方として看過されるべきものではなく、むしろその中に示されている霊的な本質部分において、信仰のあり方、礼拝の方法について多くの示唆を与えていることを知らなくてはなりません。
1、礼拝の中心は、やはり罪の贖いにありました。
2、礼拝は、ささげる喜びに満ちたものでした。
3、礼拝は、神と民(あるいは個人)の関係に目が注がれていました。
− M.F.−
「キリストの復活とわたしたち」
2010年4月4日 礼拝に備えて
コリント人への手紙 第一 15章12〜23節
今朝の聖日は、イエス・キリストの復活を覚える「復活祭聖日」となっています。復活祭は、キリスト教の最古・最大の祝日です。先ほど朗読していただいた聖書の箇所(Tコリント15:12−23)からキリストの復活は私たちに何を示しているか考えてみましょう。
パウロは、先ず、教会に侵入する間違った考え方の存在を指摘しています(12節)。
当時、コリント教会内では、キリスト信者でありながら、「将来、私たちは肉体を持ってよみがえることはなく、霊だけが生き続ける」と語る人々がいました。パウロはそのような考え方の間違い、矛盾を次のように指摘しています。
パウロは、イエス・キリストの肉体の死とよみがえりは彼だけの体験ではなく、それは人々の代表としての体験であったことを指摘しています(13−22節)。
聖書全巻は、キリストの業は直接私たちのためであることを語っています。今日の箇所の直前において、使徒パウロはキリストの十字架の死とよみがえりは、私たちの罪の赦しと救いのためであったと指摘しています(Tコリント15:1−5)。ローマ書4:25も同じことを語っています。イエス・キリストは、私たちの地上生活における単なる道徳的模範ではありません(19節)。イエス・キリストのご生涯と今の生は、私たちのものなのです。
パウロは、イエス・キリスト、次にキリスト信者の順で肉体的よみがえりが起こることを確言しています(23節)。
Tコリント15:51−52において、その時の状況が詳解されています。
キリストのよみがえりが示すものは、このように具体的な信者のよみがえりの希望なのです。皆様もキリストを信じる者とされて同じ希望を持とうではありませんか。
− T.M.−
「歴史から学ぶこと」
2010年3月28日 礼拝に備えて
歴代誌第一 1章1〜4節
おはようございます。2009年度の最後の礼拝も主の恵みの中で捧げられることができることを、主にあって感謝します。新しい年度も主の導きと祝福の中で礼拝が捧げられていけば本当に幸いです。
今朝のメッセージはT歴代誌から語らせて頂きます。新約の書簡のようにすべての節を細かく取り上げていくことはしませんが、歴代誌を通して語られている神様のメッセージを共に味わうことができたらと願っています。
今朝は一回目のメッセージということで、本文そのものよりも書巻の特徴や時代背景といった、緒論の部分に時間を費やします。これらの内容は、聖書本文をより深く理解するための導入としてとても大切な情報ですので、歴代誌のメッセージに触れる時にはこの部分をしっかりと理解してくださったらと思います。
時代背景が大きく異なってはいますが、同じ主を信じた人々の信仰の轍から学ぶべき点は多くあります。新約の書簡に比べて、身近な内容ではないと思われがちですが、歴代誌の真理が身近になればなる分だけ、神様が身近な存在になってきます。聖霊の助けを頂いて、主の真理を心にとめていけるようにしていきましょう。
− H.K.−
「神の聖なる時のリズム(2)」
2010年3月21日 礼拝に備えて
民数記 28章11〜25節
約束の地が近づく中で、出エジプトの第二世代の人々に、神は大切なことを伝えられました。本日の聖書箇所、民数記28章そして続く29章には、神へのささげ物の規定が詳細に記されています。現代の人から見れば、必ずしも興味引かれる内容には見えませんが、旧約聖書時代の神の民にとって、最も重要なきまりでした。幕屋や神殿で動物や穀物をささげることが礼拝の中心であり、彼らの信仰生活の本質的な部分でした。
旧約聖書の他の箇所にも、例祭やささげ物の規定が述べられているところがありますが、民数記の28章を詳細に見ると、その冒頭にある「定められた時に」(28:2)という表現が、大きな意味を持っていることがわかります。なぜなら、この一連の箇所で記されているささげ物のあり方は、そのささげ物の頻度の順番に語られているからです。
毎朝夕のささげ物(1〜8節)、安息日という週ごとのささげ物(9〜10節)、毎月の第一日のささげ物(11〜15節)、そして第一の月の過越のいけにえと七週の祭(16〜31節)、第七の月の贖罪の日と仮庵の祭(29章)となっています。
毎日、毎週、毎月、おおよそ半年ずつ、というように、神の定められた聖なるリズムを刻みつつ歩むように民を整えられたのです。そのことにより、彼らは、第一に贖い(救い)の意味を学び、第二に神の求めておられる礼拝者となることを教えられたのです。
− M.F.−
「愛に満ちた人生」
2010年3月14日 礼拝に備えて
マタイの福音書 22章24〜26節
ユダヤ教の律法学者達の間では、モーセ玉書(トーラー)の数々の戒めをどのように纏めるべきかで、意見が分かれていました。そこで、学者の1人がイエス・キリストに尋ねました。「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と、イエス・キリストはそれに対して次のように答えられました。
「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(いずれもマタイ22:37〜39より)
イエスは、この重要な2つの戒めは、旧約聖書の全ての戒めを纏め上げるものであると語りました。聖書によると、人の歩むべき道は、このような簡潔な戒めとして表現することができるのです。神への愛と人への愛、これが神に創造された人間の在るべき姿なのです。この大切な事実を皆様はご存知でしたか。
しかしながら、この事実を知っていても、それが私たちの毎日の生活で実践されないならば、その知識は実質のない無意味なものになってしまうでしょう。神を愛し、人を愛する人生と追い求め、それを実現させようではありませんか。
しかし、人はどのようにしてそれをいつも実践することができるのでしょうか。これは人間には不可能なことなのではないでしょうか。なぜなら、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」(エレミヤ17:9)と聖書にはあります。このような心がある限り、人には神と人を愛することは不可能です。
この不可能なことを可能にしてくださったのが、イエス・キリストです。この神から遣わされた御方は、私たちの罪深い心を清めてくださるのです。このテーマが、マタイ22:41〜46に潜んでいるのです。
− T.M.−
「神の聖なる時のリズム」
2010年3月7日 礼拝に備えて
民数記 27章12〜23節
教会の今年度のテーマとして「キリストにある成人」を揚げています。 主により救われ、恵みを受けつつ歩む時、私たちは霊的に成長します。そして、成長の一つの現れが、どれくらい主に似たものへと変えられているか、ということになると思います。民数記を今まで学び続けてきていますが、神の民の指導者モーセの信仰の姿勢を一つずつ確認していく時、彼がいかに主の心を心として歩み、主の素晴らしさを反映して行動しているかがわかります。
福音書を読むとイエス・キリストは、十字架の死の予告をしつつエルサレムに向かって行かれます。神のご計画による救いのみわざが近づけば近づくほど、主イエスの死は迫っていくのです。同様に、神の民を約束の地へと導くモーセも、民がカナンの地に近づけば近づくほど、モーセ自身は約束の地に入ることができず死を迎える時が刻々と迫ってきていることが示されるのです。
本日の聖書の箇所は、モーセからヨシュアへと神の民の指導者の交代が記述されているところです。実はこの箇所は、新約聖書のマタイの福音書9:35〜10:1の部分と多くの点で重なる点があります。
民数記27章では、モーセからヨシュアへであり、マタイ9章は、イエス様から十二弟子になっています。両方の箇所を参考にして、以下のことを学ぶことができます。
1.神は、人に祈りを与えられます。
2.神は、人を選び出されます。
3.神は、人を任命されます。
− M.F.−
「希望に燃える勇気」
2010年2月28日 礼拝に備えて
民数記 27章1〜11節
民数記も後半を迎え、この25章ぐらいから、旧世代から新世代へのバトンタッチが一つの流れになってきます。今回は、新世代を代表する2組の人物像を通して、信仰の歩みを学びたいと思います。
一人目は、ピネハスです。彼は祭司アロンの孫で、エルアザルの息子です。イスラエルの民がシティムで、ミデヤン人にそそのかされ、偶像神バアル・ペオルを慕い、不品行を行ないました。宿営でミデヤン人の女と不品行を行なったイスラエル人を、彼はその女とともに刺し殺しました。一見苛烈に見える行為ですが、彼の行為で神罰が止み、神の民の信仰が守られたのです(詳しくは25章)。
2組目は、ツエロフハデの娘たちです。ツェロフハデには息子はおらず、5人の娘だけでした。ツェロフハデが死ぬと、このマナセの−氏族は相続地を受けることができず、その名も消えてしまいます。娘たちは勇気をもって、父の相続地を自分たちに与えて欲しいと願い出ました(27章)。この2組の人たちは、新しい世代に属する人たちです。彼らの行動から、おもに2つのことを学ぶことができます。
1、彼らの信仰は、神の御心をよく悟っているものでした。ピネハスは「神のねたみ」を自分のものとし、ツェロフハデの娘たちは、まだ見ぬ約束の地を相続するという揺るぎない確信がありました。
2、彼らの行動は、借仰から来る勇気を表しています。ピネハスの大胆かつ即座の行動は神のパッション(情熱)に基づいています。ツェロフハデの娘たちは、神が公平で正しいお方であることを悟って、会見の天幕の入り口に立ったのでした。
− M.F.−
「キリストの教会」
2010年2月21日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 6章19〜24節
おはようございます。寒さ身にしみる季節ですが、寒さ以上に主の恵みが人々の身にしみることを願いします。
今朝は、エペソ人への手紙の6章から、キリストの教会というタイトルで語らせて頂きます。
唐突ですが、「教会とはいったい何なのか?」という質問に対して、皆さんは明確な答えをお持ちでしょうか?そして、その答えは聖書の真理に基づいた正しい見解でしょうか?人はいつの間にか過去の慣習や世の中の価値観に影響されてしまって、それが正解だと思い込んでしまいます。しかし、もしそれらが聖書のアイデアを適合しないものだとしたら・・・・。やはり、真実に目を向けてもう一度基本に戻る必要があるのではないでしょうか?
教会という言葉が、形だけで終わってしまわないように、神様の願われるキリストの教会を目指して、今朝も聖書の真理に目を向けていきましょう。聖書の真理には、私たちを本当の祝福へと導く力があります。あとは、私たちがそのことばをしっかりと握りしめて、それらを携えて歩み続けるだけなのです。主から力を頂いて、祝福の未来へと前進していきましょう。
− H.K.−
「私には彼が見える」
2010年2月14日 礼拝に備えて
民数記 24章10〜25節
本日も民数記の続きで、バラム(占い師)とバラク(モアブの王)の話をご一緒に学びたいと思います。
バラクは、約束の地を目指すイスラエルの民を恐れ、占い師バラムに、呪わせようとしました。しかし、バラムは呪うどころか、イスラエルの民を祝福しました。
23〜24章は、バラムの語った預言的な言葉が、大きく分けて4つ記されています。
第一の託宣には、神の民を呪うことはできないことを示します(23:7〜10)。
第二の託宣には、神の民を祝福されるお方はまことの神であることが語られています(23:18〜24)。
第三の託宣は、神の民の祝福のプロセスや様子が描かれています(24:3〜9)。
第四の託宣では、神の民の祝福を導く来るべき救い主の来臨とさばきが示されます(24:15〜24)。
これらのバラムの語った言葉から、次のことを教えられます。
1、みことばを語る能力は、バラムの聖さを証しするものではなく、神はご自身の代弁者として、だれでも用いることができるということです。
2、神はご自身の民をあふれるばかりに祝福してくださるお方であるということです。
3、神は来るべき救い主を備えておられ、このお方を通して全世界が治められることを定めておられるということです。
− M.F.−
「旅人であり寄留者である者の歩み」
2010年2月7日 礼拝に備えて
マタイの福音書 22章15〜33節
イエス・キリストは、天より下って来た神であり、また、同時に地上を歩まれた人でした。この御方の歩みは、人の歩みの完全さを示し、私たち全ての真の模範です。今日の聖書の箇所(マタイ22:15〜33)に、キリストのそのような歩みの一端を見ることができます。私たちが学ぶべき2つのポイントを考えてみましょう。
(1)人間の支配に左右されず、神の支配の現実を意識して生きる。
マタイ22:15〜22のパリサイ人との論争において、キリストは、パリサイ人にもヘロデ党の者にも組することなく、彼らの悪い策略を見抜きました。そして、彼らを非難攻撃することなく、彼ら自身が舌を巻くほどの立派な答えを述べました。ここに、キリスト者が社会においてどのような姿勢で歩むべきかの重要な示唆があります。使徒パウロも同じような姿勢を取るように私たちに勧めています(ローマ13:1,7参照)。
(2)人間の今の現実と究極の在りかたの両方を神の啓示より明確に知って歩む。
マタイ22:23〜33のサドカイ人との論争において、キリストは、サドカイ人の聖書理解の不十分さをはっきり指摘し、真理に立って歩む必要性を説かれました。人間生活には結婚という現実が多くの人にあります。この夫婦としての人格関係は、この世だけのものか、或いは、永遠に続くものか、どちらなのでしょう。肉体の復活を信じないサドカイ人は、聖書のことばを深く理解することなく夫婦の関係を永遠に持ち込む過ちを犯しました。
永遠の復活の希望に生きる者は、地上的なものに過度にこだわることなく生きることができるのです。開会聖句、また、ヘブル11:16のアブラハムの生き様を黙想しましよう。
− T.M.−
「神からの招待状」
2010年1月31日 礼拝に備えて
ルカの福音書 14章15〜24節
イエス様は多くの真理を、たとえ話によって語られました。本日開きます聖書の箇所は、大宴会のたとえ話です。
ある人が盛大な宴会を開きます。ところが、招待した人たちがみな断り、結局当初招かれていなかった貧しい人や体の不自由な人たちが招かれるというものです。
イエス様ご自身、宴でお食事に招かれたり、弟子の家で楽しい交わりを多くもっておられたようです。
このたとえ話は、私たちにどんなメッセージを伝えているのでしょうか。
1、神様は私たちを祝宴に招いておられます(16節)。神様は私たちを愛しておられ、ともに食し、交わるような愛の 関わりを願っておられます。
2、神様の招きには「時」というものがあります(17節)。神様は世の終わりに祝宴を持たれると聖書の中に預言されています。私たちは今という「時」(チャンス)を逃すべきではありません。
3、神様の招待を断る人たちがいます(18?20節)。3人の断りの内容は、自分中心の理由ばかりで、実は行かない 口実にすぎませんでした。
4、代わりに招かれていなかった人たちがその空席を埋めることになります(21〜24節)。このたとえの結びは 「わたしの晩餐を味わう人は一人もいない」(24節直訳)と厳しい言葉ですが、この神様からの招待状にどうお応えになるのかが、私たちひとりひとりに問われていることなのです。
− M.F.−
「不義の報酬を愛したバラム」
2010年1月24日 礼拝に備えて
民数記 22章1〜19節
「祝福」という言葉は、教会の中で、また聖書の言葉の中で、よく聞く表現です。とてもうれしい、喜ばしく感じる言葉です。ある辞書に「祝福とは、神の恵みが授けられること」とありました(「キリスト教大事典」)。その反対の言葉は、もちろん「呪い」です。呪いは、その逆で「神の怒りを受けること」(同上)ということです。
本日の聖書箇所、民数記22〜24章の主題は、この「呪いと祝福」です。有名な登場人物が出て来ます。それはバラクとバラムです。バラクは、モアブの王でした(ちなみに、米国のオハマ大統領もバラクBarackという名ですが、この箇所のバラクBalakとはつづりが違います。)。彼はイスラエルの民の進撃を恐れ、それをくい止めようと、おそらく当時名前のよく知られていたまじない師のバラムを招こうとしました。バラムによって、イスラエルの民に呪いをかけるためでした。
しかし、神様はバラムがイスラエルの民を呪うことを願われません。イスラエルの民は神によって祝福された存在であったからです。霊的な盲目者であったバラムに警告を与えるために、神様は本来物を言うことのないろばの口をも開かれたのです。
22章から以下のことを聴き取ることができるでしょう。
1、バラムは、祝福されている民を呪うために雇われた人であった。
2、バラムは、どん欲に目がくらんでしまった人であった。
3、どんな人も、力も、祝福された神の民を呪うことは決してできない。
− M.F.−
「選ばれた者は少ない」
2010年1月17日 礼拝に備えて
マタイの福音書 22章1〜14節
イスラエルの日常生活においては、ぶどう園とそこでの労働は在り来たりの事柄でした。イエス・キリストはぶどう園の主人(所有者)を神とし、労働を提供する者をイスラエルの人々として、解り易い譬えを語られました(マタイ21:28〜32、33〜40)。
そして、本日の聖書箇所(マタイ22:1〜14)においては、王が王子のために結婚披露宴を催し、そこに予め招待していた人々(イスラエルの人々)を招いたが、彼らは招きに応じなかったのみならず、王を侮辱するようなことをしたとされています。そこで、王の激しい怒りが燃え上がり、招かれていた人々は滅ぼされ、代わりにそれ以外の人々(異邦人)が誰でも招かれたとされています。これもとても解り易い譬えです。
これらの三つの譬えを通して、イエス・キリストは重要な真理を語ってくださいました。
1. 神からの独り子が神の選民イスラエルに遣わされたにもかかわらず、イスラエルの人々は、その御方を拒んでしまった。
2. その結果、神の厳しい罰をイスラエルは受けるようになった。ある学者は、7節の「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」を紀元70年のローマ軍によるイスラエルの滅びを預言していると解釈している。
3. イエス・キリストの福音は、すべての人々(ユダヤ人と諸国の人々)に語られ救いへと招かれるが、救いの恵みの中に入れられる人はその中で1部である、
「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(14節)とあるように。
今朝、皆さまはイエス・キリストの福音にどのように応答されるのでしょうか。
− T.M.−
「わたしを仰ぎ見て、救われよ」
2010年1月10日 礼拝に備えて
民数記 21章4〜9節
年末年始の休暇を終えて、いつもの生活が始まり、日常の慌ただしさの中に戻っておられることと思います。
この新しい年も、主とともに歩むことにおいては、さわやかな風の中、美しい草原を辿るような気持ちにもなり、他方さまざまな問題や痛みの経験を通っていくという意味では、荒野の旅を続けていくことになるのでしょう。
民数記の講解書の中に次のような一文がありました。
「荒野は、信仰と人生の訓練の場であった。荒野を通らない生活は、神を知ることができない。そこを乗り越えて、はじめて神の存在と、神の愛と力とを知ることができる。」(佐藤陽二著「民数記」)
本日の聖書箇所は、聖書全体からいっても非常に重要な記事です。というのも、キリストがはっきりと次のように仰せられたからです。
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネ3:14〜15)
青銅の蛇の出来事から以下のことを学べるでしょう。
@民の中に、人間の弱さと罪の悲惨を見ることができる。
A青銅の蛇の中に、キリストによる十字架の救いを見ることができる。
− M.F.−
「敵に立ち向かう力」
2010年1月3日 礼拝に備えて
エペソ人への手紙 6章10〜18節
新年明けまして、おめでとうございます。2010年の歩みがもう始まりました。今年が、皆様にとってどんな年になるのかはわかりませんが、昨日も今日も変わらない主を覚えて歩む一年としていきましょう。
今朝のメッセージはエペソ6章から、「聖なる武具」に関して語らせていただきます。
パウロは福音宣教に邁進するが故に、囚われの身となりました。兵士と関わることが多かったようで、霊的な成長を兵士の武具になぞらえて記しています。
元旦礼拝で、主任牧師の船橋師がクリスチャンの成長について語っておられましたが、神様は主を信じる者に対して成長することを望んでおられます。成長しなければ、切り捨てるとか見放すなんてことはされませんが、神様は私たち人間が思っている以上に、霊的な成長を切望しておられます。
しかし、現実は思い通りにはなかなか行きません。成長したいと願ってはいても、それを阻む存在がいるからです。
敵であるサタンは、吠え猛る獅子のように狙いを定めています。つまり、何も対抗策を採らなければ、私たちはずるずると罠に引きずられて、霊的な衰退をしてしまいます。
そうならないために、私たちを力づけてくれる聖なる武具を身にまとい、栄光の道を進んで行きましょう。
− H.K.−
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