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黙想


「マリヤの賛歌」

2011年12月25日 礼拝に備えて

ルカの福音書 1章46〜55節

 マリヤは当惑をしつつも,神によって身ごもったことを受け入れました。権力者は処女から生まれるという一般的な伝説や願いが古代にはあったようです。しかしこの奇跡は高貴な女性,権力者の母となるべき女性に限られていると信じられていました。つまり,マリヤという名もなき女性にこの奇跡が起きるはずはなかったのです。しかし,神はマリヤを選びました。神の恵みから遠いとされた女性,あるいはそのように周りの人々から思わされていた女性に、神は恵みを与えました。最初から恵まれていると思われる人が恵みを受けても、それは福音(良い知らせ)ではありません。当たり前に過ぎないのです。

 神から見放されたあるいは神の祝福を失ったと思われる人が、実は神の救いを経験する,このことはマリヤの賛歌の後半で語られます。社会の中で低くされた人々(病気、性別、年齢。ある職業の人々、外国人など)や貧しい人々がいて、彼らは神の救いも祝福も失っているとみなされました。しかし,神はそのような人々を救うのです。逆に、神によって祝福されていると考えられた人々は、その神によって追放されてしまいます。この神の働きは旧約聖書が語る救いであり、イエスの宣教そのものでもありました。マリヤは神の業を歌い,自らが産むことになるイエスの宣教を語るのです。

 クリスマスはイエスの生誕の祝いです。それはイエスの救いの業を感謝し,私たちがそこに生きることを決断する時もあります。私たちも神を信じ愛して、人を大切にしていく人生を選びたく思います。

− H.M.−


「神のみこころなら」

2011年12月18日 礼拝に備えて

使徒の働き 18章18〜28節

「神のみこころなら」と、使徒パウロが語ったことが記されております。今年を振り返って、私自身も、神のみこころを問い続けて一年を過ごしてきたような思いを持っています。「主のみこころなら」は、ヤコブ定式とも言われています。ヤコブの手紙4章15節に「むしろ、あなたがたはこう言うべきです。『主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。』」とあるからです。

 神様の導きを求めて歩む生き方は、何か自分の主体性を放棄して、責任逃れの消極的なスタイルのように誤解されることもあるでしょう。しかし、本日の聖書箇所を見ていくと、パウロをはじめとして、登場する主のしもべたちが、決して消極的でもスローな人たちではなく、むしろ生き生きと行いをもって主に奉仕する人々であったことが明瞭に示されています。

 1.神のご計画に従って行動するパウロ(18?23節)。目立ちませんが、23節から第三次伝道旅行が静かに着実に始められています。

 2.神のご計画を正確に教えるプリスキラとアクラ(18,19,26節)。この夫婦が家庭を開放して働き人を招き、また伝道したことは、今日のクリスチャン家庭の良きあり方を示しています。

 3.神のご計画を知って大胆に宣教するアポロ(24?28節)。聖書に通じ、霊に燃え、大胆に御言葉を語るアポロは、いつの時代にも求められる主の働き人の目指すべき模範です。

− M.F.−


「恐れず語り続けよ」

2011年12月11日 礼拝に備えて

使徒の働き 18章1〜17節

 パウロはアテネを去って、コリントの町に入りました。コリントは、ギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶ地峡に位置しています。ケンクレヤとレカイオンの両港によって、交通の要所として商業の発達した大きな町でした。また偶像崇拝と不品行がはびこる町でもありました。ギリシア語のコリンシアゾー「コリント人のように振る舞う」という語の意味は、「不品行を行う」を意味したほどです。

 さて、パウロはこの町に来た時、どのような状態だったのでしょうか。コリント人への手紙第一2章3節に、その時のことを回想してパウロはこう記しています。「あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。」

 死をも恐れぬ勇気あるキリストの偉大な戦士パウロであっても、気落ちし、恐れを抱くことがあったのです。このことを知った上で、本日の聖書箇所のコリント伝道の様子を学ぶと、神様がパウロをいかにして励まし、力づけて彼を用いられたのかがわかってきます。

1.パウロに良き協力者が備えられました(1〜4節)。アクラとプリスキラというクリスチャン夫婦です。彼らとの出会いを通してパウロは勇気づけられ、力を得ることができたのです。

2.パウロに主からの約束の言葉が与えられました(9〜10節)。「恐れないで、語り続けなさい。」一年半もの間、腰を据えてコリントで宣教できたのは、パウロがこの約束をしっかり握っていたからです。

− M.F.−


「知られない神を知らせよう」

2011年12月04日 礼拝に備えて

使徒の働き 17章16〜34節

 12月に入りました。主イエスのご降誕を覚え、心から礼拝を捧げていきましょう。また再び来られる主イエスを待ち望むアドベント(待降節)とさせていただきましょう。

さて本日は、パウロのアレオパゴスでの説教を通して学びましょう。

1、アテネの人々と私たち
 古代ギリシャの最も著名な都市アテネにパウロが入りました。パウロが訪れた時には、都市としての隆盛は過去のものになりつつありましたが、その文化や、哲学、芸術等は、依然として当時の最高峰であったでしょう。アテネ人の特徴が、17章に描かれています。彼らは宗教心にあつく(偶像がいっぱい)、哲学者たちがおり(教養人たちが多くいた)、そして知識や情報を蓄えるだけで毎日を過ごしていました。 私には人々のこれらの特徴は、現代の日本の人々の状況にたいへん良く似ているように思えます。

2,「知られない神」を教えましょう
「知られない神に」と刻まれた祭壇の石碑は見つかり発掘されています。当時のアテネの人たちが知らずに拝んでいたのです。クリスマスシーズンになって、街やショッピングモールに出かけると、そこに大きなクリスマスツリーが色とりどりのイルミネーションをもって飾られ、クリスマスソング(多くは賛美歌)が大音量で流れています。日本人の多くが、意味もわからず知らずに拝んでいる「イエス・キリスト」を私たちもパウロに倣ってしっかり伝えましょう。

− M.F.−


「語る責任、聞く責任」

2011年11月27日 礼拝に備えて

使徒の働き 17章1〜15節

「不屈の精神と疲れ知らずの十字架の忍耐」と、宗教改革者カルヴァンは使徒パウロを評して語りました。1節に記されている旅程は、ピリピからテサロニケまでの旅の要約ですが、実際の距離は160キロ以上あります。当時の交通手段を考えると、これが本当に大変な距離の走破であったと思います。

 そのように疲れを知らぬパウロ一行が到着したテサロニケの町は、マケドニヤの州都で港としても商業や貿易の中心地であり、パウロが訪れた時には、推定12万人の人口があったと言われています。またこの町はローマの幹線道路であるエグナティア街道に沿っており、この道は東に西に神の国を宣べ伝えるハイウェイの役割を果たすことができたのです。

 ヤソンの家の襲撃事件により、やむなく退去したパウロたちでしたが、救われた人たちが起こり、間もなくして教会形成がなされていったことが、パウロの手紙である「テサロニケ人への手紙第−と第二」によって明らかです。

 また次に向かった町ベレヤでも人々が救われました。このテサロニケとベレヤの宣教の中に、聖書をパウロたちがどう語ったのか、また御言葉を聞いた人たちがどのような姿勢でそれを受け入れていったのかという素晴らしい点が示されています。

1、パウロは聖書に基づいて論じ、説明し、論証しました(2〜3節)。

2、べレヤの人々は熱心に御言葉を聞き、そのとおりかどうかと毎日聖書を調べました(11節)。

− M.F.−


「幸せをもたらす大切な教え」

2011年11月20日 礼拝に備えて

申命記 6章1〜9節

 神が語られる時、私たちの多くは霧に包まれた人のようになり、何の返答も見出せない。モーセは、どこにいても答えた。私たちは自分の望んでいることを神に語るのに、忙しくするだけである。神と正しく交わり、自らの実状を知り、備えて待て。私たちは何かセンセーショナルなものを予想して待つ。それがやって来た時には、「はい、ここにおります」とすぐに叫ぶ。神のために備えるとは、どんなに小さくてつまらないことでも、大きくて大切なことでも喜んで行うことを意味している。そこには何の違いもない。このことについては、私たちに選択の余地がない。神のご計画が何であっても、私たちは備えていかなければならない。いかなる義務を差し出されても、主が神の声に聞き従われたように、私たちも神の声に聞き従うのである。そして私たちは主のために、油断のない愛の気配りをもって備えるべきである。御父が御子になされたように、主は私たちに期待しておられる。主は、楽しい務めはもちろん、たとえ卑しい務めであっても、私たちを主の好まれる努めに任じることができる。なぜならば、「私たちが一つであるように、彼らも一つであるためです」とあるように、御父と御子と一つだからである。準備のできた者は、もはや用意する必要はない。神が召された時に、備えようとして無駄にする時間を考えてみよ。燃える柴は、備えのできた魂を取り囲むすべてのものの象徴である。それは主の臨在で光り輝いている。神の突然の驚くべき訪れに備えよ。

(チェンバーズ「いと高き方のもとに」より)


「神の救いのかたち」

2011年11月13日 礼拝に備えて

マタイの福音書 5章38〜42節

 悪なる者に反抗することが禁じられるどころか、その要求以上のもので応えるようにイエスは言います。悪に「無抵抗」であるように敢えて語ることには何らか意味があると考えて良いでしょう。イエスの語る3つの例は、すべて虐げられた結果です。力ある人々が見える暴力や見えない暴力で、力ない人々を支配しようとしています。それに対して、虐げられている人々は暴力で抵抗することはできません。彼らが不正を訴えうる方法は、要求以上の事柄を行うことだけです。それは無抵抗ではなく、力ある人々への抵抗です。

 聖書の価値観は決して無抵抗ではありません。モーセはエジプト王に逆らい、奴隷を解放しました。旧約の預言者たちは、神に従わない王や権力者に抵抗しました。イエス自身も、虐げられている人々の救いのために、ユダヤやローマの権力者に抵抗し衝突しました。もし神の民が力ある人々に抵抗せずに従順であれば、何も起きなかったでしょう。イエスも殺されずに済んだことになります。しかし、神に従った者たちは、暴力で人々を支配する人間にそれが神の意思ではないことを身を持って示し、抵抗しました。この世界が神への服従を拒む限りにおいて、神を信じる者がこの世界に暴力を用いずに抵抗するがあります。確かに、この世界とうまくやっていくことは大切ですし、不必要な衝突は避けるべきです。でも、特に虐げられている人々がいる場合、抗う必要もあります。聖書が語るように、抵抗は虐げられている人々を救う神の方法の一つだからです。

− H.M.−


「獄中賛美」

2011年11月06日 礼拝に備えて

使徒の働き 16章19〜40節

 アメリカの高名な説教者W.ワーズビー師は、使徒の働き16章6節から40節を神が開かれた「3つのワンダフル・オープン」と言っていますが、確かにその通りかもしれません。マケドニヤへの伝道の道が開かれ(6〜12節)、紫布商人ルデヤの心が開かれ(13〜15節)、そして獄屋の扉が開かれた(16〜40節)のです。

 そのようにして、主要な3人の人たちの回心の出来事(ルデヤ・占いの霊に憑かれていた女奴隷・看守)のそれぞれが、後のピリピ教会の誕生の基になったことでしょう。ルデヤは、経済的におそらく豊かな人、占いの奴隷から解放された女性は全く反対に社会的に貧しい身分の人であったでしょうし、今回見ます看守の男性は、言わば中流社会に属する人であったとの見方もできます。こうして社会の色々な階層の人たちが、主キリストを信じ、救われたことはその後の地域の宣教にとって非常に大きな祝福となったことでしょう。

 本日の箇所では、人がなすべき最も大切な問いかけと、それに対する答えがストレートに記されています。

「救われるためには、何をしなければなりませんか。」

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」

 地震が起こり、牢屋の戸が開き、追いつめられて自害を図ろうとした看守の、人生を預けるギリギリの言葉がこれでした。獄中で賛美をして祈っていた二人にとって、この答えはハッキリしていました。私たちも主イエスを信じましょう。

− M.F.−


「神の前に富む者」

2011年10月30日 礼拝に備えて

ルカの福音書 12章13〜21節

 グッドニュース・サンデーの礼拝にようこそお越しくださいました。

 今朝は、イエス・キリストが話されました、一つのたとえ話の箇所を見ていきたいと思います。これはお金持ちの話ですが、「愚かな金持ちのたとえ」と言われています。20節のところで、神様から「愚か者」と呼ばれているからです。なぜ愚か者と呼ばれたのでしょうか。その理由をご説明しましょう。

1、この金持ちの人は、目に見える財産や富に、その心が向いています。あまりの豊作で、収穫物を入れるところがないことを心配しています。心配と言えば、この聖書箇所の続きの22節からは、逆にお金がないことへの心配、貧しさによる不安についてのことが語られます。結局、人はお金があっても無くても思い煩うのです。でも、その富を与えてくれたお方である神様に目を留める人は、幸いを得ると聖書は約束しています。「たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(テモ第−6:17)。

2、愚かな金持ちは、自分自身にのみ心が向いていました。17〜19節の原文には「私の作物」「私の倉」「私の穀物や財産」というように、「私」中心のこの人の内面が描かれています。これは単なる利己主義を超えて、自分以外の他者を見る視点を持っていない人の有様が描かれています。しかし神は人に対して「おまえ(あなた)」と呼んで、いのちの繋がりを結ぼうと願っておられます。

− M.F.−


「偶像を退ける」

2011年10月23日 礼拝に備えて

マタイの福音書 5章33〜37節

 誓いには,神を自分のために利用してしまう誘惑があります。イエスが誓いを禁じたのは,誓いという行為にそのような危険を感じ取っていたからです。旧約聖書における偶像禁止の律法は,確かに聖書の神以外の神々を偶像として刻み,それを拝むことの禁令でした。しかし同時に,聖書の神は自らが見える形に刻まれ,形作られることを拒絶しています。古代イスラエルのエルサレム神殿には神ヤハウェの像はなく,その足台(ケルビム像)だけが置かれていました。神自身が偶像化されてしまうことを,全く否定しているのです。偶像化とは,単に神を木や金属で形作り,それを通して神を礼拝することではありません。偶像化とは,神を自分の生活とは関係のない神棚に奉り,ひたすらそれを拝み,自分のために神を利用しようとすることです。つまり,自分の思い通りの神でなければ,神として認めない態度です。利用する関係,利用される関係には信頼関係などありません。聖書の言葉を使えば,信仰などないのです。誓いには神を自らのため,自分の利益を得るための方策として用いられてしまいかねない危険をはらんでいます。イエスはそこに警告を与えているのです。

 私たちは,神をあるいはイエスを神棚に祭り上げ,私の幸福のために利用する誘惑を退けなければなりません。神を偶像にし,恵みを与える機械仕掛けの神にしてしまうことは,結局は私たちを自己中心へと引きずり下ろし,私と隣人とを不幸にします。神は私たちが利用する方ではなく,神は私たちが服従すべき方なのです。

− H.M.−



「聖霊のナビゲート」

2011年10月16日 礼拝に備えて

使徒の働き 16章11〜18節

 本日の聖書箇所に、ピリピ教会の誕生が描かれています。おそらくその後のピリピ教会の創立に関わったであろう3人の人々の回心が順に描かれています。最初はルデヤというビジネスウーマン、次に占いの霊に取り憑かれた女奴隷であった人、そして看守の男です。
 その後、ピリピ教会が使徒パウロの働きを物心両面で助け、獄中にいる彼を熱心にサポートしたことは、パウロの礼状でもある「ピリピ人への手紙」で明らかです。
 パウロはピリピ人への手紙の中で、次のように言っています。「私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが、最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」(ピリピ1:3〜5)。その「最初の日」を見ていきましょう。

1.主はルデヤの心を開かれた(11〜16節)。御言葉が宣教者によって語られ、主がその人の心を開いて、心に留めるようにされるのです。私たちの回心もそのようにして起こったのではないでしょうか。

2.主は女奴隷の中の霊を追い出された(16〜18節)。この占いの霊に憑かれた若い女性は、悪霊に縛られ、非道な主人たちによって束縛されていました。社会的に見ても健全性を失い、主人たちの金儲けの道具としてこき使われ、人間扱いされていなかったこの人に、真の解放が与えられたのです。主はどのような境遇に置かれた人々にも救いを与えるお方です。

− M.F.−


「聖霊のナビゲート」

2011年10月9日 礼拝に備えて

使徒の働き 16章6〜10節

 使徒パウロの第二次伝道旅行の記事を続けて見ています。この箇所は、私たちに聖霊の導きということについて教えてくれます。実はここに記されている出来事は、その後のキリスト教の歴史、さらに言えば世界歴史上、大転換点となったところです。というのは、この聖霊の導きで、福音は東のアジアではなく、西側にもたらされ、古代・中世・近世にわたって、キリスト教世界はヨーロッパ大陸がその中心舞台となるに至ったのです。

1.聖霊が「ノー」と言われる導き(6〜8節)。「聖霊によって禁じられたので」(6節)、「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」(7節)とあります。この聖霊による禁止がどのような方法によってなされたのかは、聖書に記されていません。色々な可能性が想像されます。パウロの心の中に与えられた主の御声、シラスによる預言、厳しい迫害、法律による入国の禁止、あるいは誰かの病気かもしれません。しかし、A.T.ピアソン師が語られたように、聖霊の導きは常にダブル・ガイダンス(二重の導き)なのです。「行くな」と同時に「行け」が必ず示されるのです。

2.聖霊が「ゴー」(Go!)と言われる導き(9〜10節)。小アジアではなく、マケドニヤへと彼らは導かれました。10節から主語が「私たち」に変わり、著者であるルカが新たにメンバーに加わっての伝道旅行となりました。私たちにも聖霊は時に「ノー」を、しかし必ず「ゴー」を語られているはずです。神が私たちを招いて、人々に福音を宣べさせるために!

− M.F.−


「育てる心」

2011年10月2日 礼拝に備えて

使徒の働き 15章36節〜16章5節

 私たち石橋キリスト教会の目標は、主の弟子としての成熟と、宣教による成長、ということができます。「成長」というと、自分は果たして信仰において成長しているのかどうか、という自分への問いかけや思いになりがちです。しかし自らの成長ばかりに目を留めるのではなく、周りにいる人々に目を注ぎ、他の兄弟姉妹たちの信仰の成長に自分が用いられることを求めることも重要です。人が成長するためには、ともにいて見守り、あるいは励まし、援助を行なう人たちの存在が不可欠なのです。育てる心、それこそが教会全体を成長させる鍵なのです。
 本日の聖書箇所は、パウロの第二次伝道旅行の始まりの部分です。ここにはマルコを同行させることについてパウロとバルナバの激しいやりとりが示されています。そして続く16章でパウロは若いテモテを連れて行くためにしたことが記されています。パウロもバルナバも共通した思い「育てる思い」が常にあったことを伺わせます。

1、宣教と教育の動機は救われた人々の育成にあります(15章36節)。第二回宣教旅行の発端は救われた人たちがどうしているかを見て来るということでした。

2、失敗した人にもチャンスを与えることで成長に導くことができます(37〜41節)。マルコのその後の成長については他の聖書箇所で確認してください(コロ4:10、ピレ24、Uテモ4:11)。

3、成長できるための環境づくりが必要です(16章1.5節)。割礼はユダヤ人中心であった当時の教会の働きにおいて必要とみなされたのでした。

− M.F.−


「イエスのまなざし」

2011年9月25日 礼拝に備えて

マタイの福音書 5章27〜32節

 イエスの文性に対するまなざしは.当時の常識としては特別でした。福音書にはイエスと文性たちの接点が様々な形で記されていますが,彼女たちはイエスによって受け入れられ、一人の人として扱われる経験をしていく のです。姦淫の罪に対するイエスの解釈は、人を人として重んじる姿勢を抜きにしては考えられません。
 時代や場所が変われば、(社会としての)女性と男性との関係も変わります。目を現代に移すときに,女性の社会の位置はイエスの生きた世界とは大きく異なっていることに気つくでしょう。しかしその一方で、性差の問 題に限らず、人を人として扱わないような出来事がこの世界にイエスの時代と同様、起きています。イエスが女性・男性の課題を取り上げることで、人は人として大切な存在であることを語ったことを思い出さなければなりません。このイエスの思いは,私たち時代に本当に意味のあることです。人には人としてそれだけで価値があることをイエスは認め、キリスト者にも人を価値ある者として受け入れ合うように聖書は勧めています。他者に価値を認めれば、神が認める方向で人間関係は変わります。他者を支配しようとすることをやめれば、神の求めた形に私たちは変わります。イエスはその人生・死・復活を通してその難しさと、しかしそのすばらしさを命懸けで示したのです。人を物扱いにしない、人を人として互いに大切にしていく、このイエスの人に対するまなざしからキリスト者としての生き方をはじめていきたいと思います。

− H.M.−


「聖霊と私たちが決めたこと」

2011年9月18日 礼拝に備えて

使徒の働き 15章1〜21節

 本日の聖書箇所は、エルサレム会議と呼ばれるところです。歴史上、いくつかの重要な教会会議が行われました。たとえば、ニカイア会議(4世紀)、カルケドン会議(5世紀)などです。しかし、最も重要な教会会議はなんと言っても、このエルサレム会議でした。著者ルカは「使徒の働き」全体の中心に位置するところに、この出来事を配したと考えられています。

 この会議の決議は、それから後のキリスト教会の歴史を決定づけたとも言えるのです。異邦人伝道が盛んになり、信仰を持った異邦人が増えるに及んで、あるユダヤ人クリスチャンたちの間で、拒絶反応が起こったのです。その人たちはユダヤ教の律法義務を行わずして救われ、神の民になることはできないと考えたのです。また律法を守らない異邦人との交わりに対する嫌悪感が強くあったのです。

 そこで大激論の末、会議で導かれた結論は、異邦人に律法の義務を守らせる必要は無い、ということでした。そしてこの結論こそは「(人はだれでも)福音のことばを聞いて信じ」「主イエスの恵みによって救われる(7,11節)」という、恵みにより信仰を通しての救いを全教会が一致をもって確認する機会となったのでした。

 そして当時のユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの交わりを配慮しての補則的な内容(20節)をこれに加えて、異邦人中心のアンテオケ、シリヤ、キリキヤの教会に伝えられたのです。まさにこれは「聖霊と私たちが決めた」ところの最も重要な確認でした。

− M.F.−


「神が共にいて行われたすべてのこと」

2011年9月11日 礼拝に備えて

使徒の働き 14章19〜28節

 本日の聖日は2011年9月11日で、お気づきのとおり、米国の同時多発テロ事件から10年、そして東日本大震災よりちょうど半年です。日本が、そして世界が衝撃を受けたこれらのことを私たちは決して忘れられないし、また忘れるべきでもありません。これらの出来事を通して、今や世界は大きな変革の時を迎え、それと同時に私たちの世界観やものの見方にも少なからず影響があったと思います。

 本日も使徒の働きを見ますが、考えてみれば、初代教会のこれらの歩みは、やはり大きな変化を迎えた時代状況の中にありました。ローマ帝国の絶大な支配が地中海世界を覆っていることに変わりはありませんでしたが、船や陸路を通じての交通網の発達、パピルスの普及による文書や情報共有の進歩等があり、ペンテコステ (聖霊降臨)後、キリストを信じる信仰が各地に広がっていったのです。

 パウロとバルナバが宣教旅行でおこなった働きの要約が本日の箇所に記されています。時代や土地の文化的要素により、かたちを変えて来てはいても、彼らの成した働きは、現代に生きる教会にも同じように当てはめられる事柄です。

1.彼らは福音を宣べ、弟子をつくった (21節)。

2.彼らは弟子となった人たちを励まし教えた (22節)。

3.彼らは教会を組織化して建てあげた (23節)。

4.彼らは成し遂げた働きを報告し、神の恵みを分かち合った (27節)。

− M.F.−


「すべてのものを造られた生ける神」

2011年9月4日 礼拝に備えて

使徒の働き 14章1〜18節

 今回もパウロとバルナバによる第一回伝道旅行から学びましょう。

 本日の箇所の前半は@イコニオムでの様子(1〜7節)、後半はAルステラでの出来事(8〜18節)です。

(1)イコニオムでの宣教において学びますことは、福音は人々を救いに結びつけて一つにする一方で、分断や対立にいたらせることがあるということです。福音は、国境や人種の境界を乗り越えさせ、性別、年齢、貧富の差など関係なく、すべての人をキリストにあって、一つにすることができるのです。これはキリスト教会が宣教の歴史においていつも意識され、その恵みを感じてきたことです。しかし同時に、みことばを受け入れ従って歩む時に、しばしば体験するのは、信じていくことに障害となる出来事や、様々な迫害、心の葛藤が起こるのです。イコニオムの町は、このために二つに分かれてしまいました。

(2)次にルステラでの話は、福音の根底である創造主なる神を理解するということです。宗教改革者カルヴァンが言うように、人間の頭の中は偶像を生み出す工場のようなものです。ルステラでは主の御力によって行なわれた恵みの奇跡を見た人々が、パウロとバルナバをギリシャ神話の神々の化身と見て、供え物を捧げようとしたのです。これは日本の宗教的あり方から見るとよくわかります。私たちも自らの信仰を含めて、この日本での伝道を考える場合に、天と地とすべてのものをお造りになった神を、人生の歩みの土台に据えることが、第一のことであることを覚えましょう。

− M.F.−


「この方は誰?」

2011年8月28日 礼拝に備えて

マルコ福音書 4章35〜41節

 永遠の父なる神よ、あなたには始まりも終わりもありません。あなたはアルファでありオメガです。このことを私たちは信じています。なぜならあなたが啓示してくださったからです。私たちの心は感謝で喜び躍っています。あなたが私たちの目を開いてくださり、キリストが永遠の神の御子であり、お生まれになった方であり、決して造られたのでもなく、御父と御子はおひとりの神であることを、見て、信じる者としてくださったからです。そのような栄光ある真理を語る者とされたのに、不適切なことばであなたの栄光を汚してしまうことを恐れ、身震いさえします。それでも語らずにはいられません。賛美せずにはいられません。あなたはご自身で創造された世界に存在しておられるゆえに、賛美される方です。御子なるイエス・キリストを味わい、見る者として造ってくださいました。父なる神よ、私たちはキリストを知りたいのです。私たちの心からキリストについての貧しい考えを消し去ってください。私たちのたましいをキリストの御霊とその偉大さで満たしてください。私たちの心を広くし、すべてに満足する者としてください。あなたはキリストにあって私たちのためにおられるからです。肉体が弱っているときもキリストを現し、私たちの関心と愛を栄光の御子の真理と麗しさに向けさせてください。豊かでも貧しくても、病気でも健康でも、キリストによって変えられ、キリストのすばらしさをこの世に現す者とならせてください。アーメン。

(ジョン・ハイパー著「聖書が語る真実のイエス」より)


「和解の戒め」

2011年8月21日 礼拝に備えて

マタイ福音書 5章21〜26節

 古代イスラエルに対する神の意図は,彼らが平和に暮らし,皆が暮らしに困らないように助け合うことでした。そのためには,互いに守らなければならないルールが必要です。そのルールを神は律法という形で示しました。「殺すな」は,その一例です。しかしここには,私たちが陥りやすい罠があります。つまり,律法を文字通りに守っていればそれで良い,という意識です。古代ユダヤの人々であれば, そこに人間関係の破壊があり,隣人を侮辱しても,隣人から搾り取っても,隣人を差別しても,殺さなかったから良いということになります。キリスト者の場合も,人間関係が壊れてしまったときに,神の前で赦しを求める祈りをすれば十分である,そう考えることがあります。もちろん神の介在がなければ,人間関係は壊れたままです。でも,壊れた人間関係に関わった人々が互いの理解への努力をし,和解の具体的な働きをしていかねば,神の意図は実現したことにはならないとイエスは言います。人間関係の回復には,感情の癒とそのための時間が必要です。赦せないという感情的な葛藤,逆に赦さねばならないという脅迫観念など克服すべき事柄が複雑にあります。人を赦すことはもちろん,相手から赦しを得ること,その赦しを確信することは常に困難です。だからこそ,神は人間関係の修復・和解に向かう勇気と知恵を与え,私たちを和解へと押し出してくださるのです。それは,人の命を守り,和解を果たしていくことが人間(あなたと私)にとって最善であることを神は知っているからです。それが最も人間に相応しい生き方だからです。

− H.M.−


「イエスのもとにある安らぎ」

2011年8月14日 礼拝に備えて

マタイの福音書 11章28〜29節

 全能の、あわれみ深い神よ。あなたの御子、私たちの主イエス・キリストにおける、あなたの力とあわれみのゆえにあがめます。獅子のような強さと、小羊のような柔和な優しさのゆえに喜びます。キリストの卓越性の見事な結合に力を受けます。キリストのような方がほかにはおられないこと、キリストは単なる人間とは異なる存在であることを再び確信させられます。主よ、軽率で無関心なこの者を、ユダの獅子の御前で震えおののかせ、獰猛なまでの聖さのもとにへりくだらせてください。主よ、傷つき、恐れている私たちが、獅子のような小羊から勇気を得ることができますように。私たちはどれほどキリストのすべてを求めていることでしょうか。私たちの目を開き、キリストの卓説性を十分に見る者としてください。賛美の声を弱め、服従をくじかせる、偏り歪んだ御子のイメージを取り除いてください。獅子の力と小羊の愛によって、キリストへの信仰が揺り動かされることのないようにしてください。そして、小さな夢と臆病な冒険と、もたついている計画から私たちを救い出してください。勇気を与えてください。力を与えてください。獰猛なまでに力強く、しかも謙遜な愛をもって愛する者としてください。小羊のように死に、永遠の喜びのうちに復活したユダの獅子の確信を分け与えてください。そして、すべての人がキリストの栄光を見て、またあなたがキリストによってあがめられますように。イエスの御名によって祈ります。アーメン。  

(J.パイパー著「聖書が語る真実のイエス」より)


「永遠のいのちへの応答」

2011年8月7日 礼拝に備えて

使徒の働き 13章42〜52節

 ピシデヤのアンテオケの会堂で、パウロが語ったメッセージは、聴衆に様々な反応を呼び起こしました。一方では大勢の人々が神の言葉を喜んで聞き、受け入れて信じました。しかし他方、あるユダヤ人たちは、ねたみに燃え、反対して、口汚くパウロたちを罵りました。
本日の聖書箇所(13章42.52節)の中心部分は、46節から48節にあります。その文章の構造は次の通りです。

46節 ・・あなたがたはそれ(神のことば)を拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。・・

47節 『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』

48節 異邦人たちは、・・主のみことばを賛美した。そして永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入った。

 46節と48節では、「神のことば」あるいは「主のみことば」という表現と、「永遠のいのち」という言葉が繰り返されています。46節では、神のことばを拒絶して、永遠のいのちを放棄している人々を語り、48節では逆に、主のみことばを賛美して、信じて永遠のいのちに至る人々のこととが対照されています。その対照に挟まれて、最も大切な真理が語られます。それは47節です。福音を語るキリストの証人としての神からの使命が、パウロにバルナバに、そして現代の私たちクリスチャンに与えられているということです。

− M.F.−


「つながる喜び」

2011年7月31日 礼拝に備えて

ヨハネの福音書 15章1〜10節

 イエス・キリストは、人々にわかりやすく大切な真理を説かれました。ヨハネの福音書を見ると、ご自分がどんなお方であるのかを、「わたしは〜です」という言い方で、7回お話しされています。

 簡単に紹介しますと、
@わたしはいのちのパンです(6章)。
Aわたしは世の光です(8章)。
Bわたしは羊の門です(10章)
Gわたしは良い羊飼いです(10章)。
Dわたしはよみがえりです(11章)。
Eわたしは道、真理、いのちです(14章)。
Fわたしはまことのぶどうの木です。

 この7番目、最後の締めくくりのような言葉が、キリストが十字架に架かられる直前の訣別説教の中で語られました。

 この最初のところ、15章1節で、キリストは、単にrぶどうの木」と言わず、「まことのぶどうの木」と言われました。形容詞 「まことの」を付けた理由は、当時もそして今も、見かけだけの、偽物のぶどうの木があるということです。

 1、キリストこそが本当のぶどうの木です。それは、この方につながれば、私たちはそのすばらしい命に満たされ、実を結ぶことができます。私たちは他のものをもって、キリストというぶどうの木の代わりにしてはいないでしょうか。

 2、私たちは枝です。枝だけで実を結ぶことは決してありません。枝ができることは、ぶどうの木の本体につながること、とどまり続けることに尽きます。そして多くの実を結ぶために、神はときにあなたを刈り込まれることもあります。

− M.F.−


「送られた救いのことば」

2011年7月24日 礼拝に備えて

使徒の働き 13章13〜41節

 本日の礼拝は、3142回日となっています。もし第1回目から、石橋教会の礼拝に休むことなく集っておられる方がありましたら、この礼拝の回数そのものが、聖書からのメッセージを聞いて来られた回数ということになります。私自身は多くの先輩方のように信仰歴も人生経験もありませんから、それほど多くのメッセージを聞いて来た訳ではありません。しかしそれでも礼拝はもちろん、録音テープや読書を通して、本当に数多くの説教を聞く恵みにあずかってきました。

 過去、内村鑑三師や、植村正久師など有名な日本人の優れた説教者の名も聞いています。しかし日本であれ、世界であれ、私たちの主イエスを除いて、最も世界に影響を与えた説教者は、初代教会の使徒たちのメッセージではないでしょうか。

 今回の聖書箇所には、大伝道者、使徒パウロが語ったメッセージを見ることができます。パウロの説教はいかなものだったのでしょうか。この記事を通して、私たちも現代のキリストの証人として、語るべき御言葉の内容を学びたいと思います。パウロの呼びかけの言葉である「イスラエルの人たち」(16節)、「兄弟の方々」(26節)、「兄弟たち」(38節)という表現から、その内容は3つの部分に分けることができます。

 1、パウロは歴史の頂点として示されるイエス様を語る(16−25節)。

 2、パウロは預言の言葉の成就として示されるイエス様を語る(26〜37節)。

 3、パウロは罪人を義とされる方としてのイエス様を語る(38〜41節)。

− M.F.−


「聖霊に遣わされて」

2011年7月17日 礼拝に備えて

使徒の働き 13章1〜12節

 本日は、教団の海外宣教デーとなっています。そのことに最もふさわしい聖書箇所、使徒の働き13章を見ていきましょう。

 使徒の働き13章は、この書全体のターニングポイントとなる章です。最初の1から12章は、おもにペテロの宣教に主眼点が置かれていましたが、13章からはパウロにフォーカスがシフトしていきます。同じように、12章までのエルサレムにあるユダヤ人を中心とする教会から、13章に入るとアンテオケにある異邦人教会を出発点とする宣教旅行が描かれていくのです。

 イエス・キリストが言われた通り、「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで」というビジョンが、まさに成就していくことを見ることができるのです。

 1、まず宣教的な教会の姿が描かれています(1?3節)。それは言うまでもなく、当時のアンテオケにあった教会です。5人の指導者が立てられていましたが、ユダヤ人もアフリカ人もおり、国主ヘロデの親友という身分の高い人もおりました。彼らが礼拝、祈り、断食をしている中に、聖霊の御声を聞くことのできる霊的に成熟した教会であったこと。そして宣教する人たちを派遣する、宣教的な教会であったことに注目しましょう。

 2、宣教的な教会リーダーの姿をここに見ます(4?12節)。派遣されたバルナバとサウロ(パウロ)は、神の言葉を語り、主のまっすぐな道を曲げる者と、聖霊に満たされつつ闘いました。彼らは「聖霊に遣わされ」宣教のため赴きました。

− M.F.−


「律法の成就」

2011年7月10日 礼拝に備えて

マタイ福音書 5章17〜20節

 パリサイ派や律法学者が抱えていた問題点は、律法を字面だけで守ることでした。どのような規則にも、それを定めた目的や理由があります。モーセの時代に律法が定められたのは、イスラエルが民として成り立つ時期だったからです。多くの人々が集まり社会を築いていくという中で、互いに守るべき事柄が規則として与えられました。神はイスラエルの民にご自分の考えを示し、それにそって新しい社会を築くように促しました。そこには社会的弱者への配慮も見られ、民が欠乏せずに生きていける社会作りが念頭に入れられています(例えば、安息日規定の本来の目的はここにあります)。しかし、そのような目的も忘れられ、ただ字面にユダヤの民は固執しました。

 イエスが律法を大切にするとは、本来の神の意思に戻って律法を理解しなおすことでした。義が勝ることは、パリサイ派や律法学者より数多く律法を守ることではありません。弱い人々を救うことが神の意思であること、ここからイエスは律法を見直しています。律法をまとめると神と人とを愛することであると新約には記されています。これは、当時のユダヤ教の指導者たちの考えでした。そのような意味で彼らは、律法の核心をついていたのです。しかし、それが現実の中で神と人とを愛することに結びつかず、自己満足に終わり、結果として他の多くの人々を苦しめました。そのような状況は、神の意思ではないとイエスは宣言したのです。キリスト者の義とは、神と人とに関わり大切にするというイエスの生き方を実現しようとする努めなのです。

− H.M.−


「神に栄光を帰す」

2011年7月3日 礼拝に備えて

使徒の働き 12章20〜25節

 12章に記されている「ヘロデ」すなわち、ヘロデ・アグリッパ一世は、祖父ヘロデ大王の治めていたときと同等の領地を手に入れ、大きな権力を得た人物として知られています。そのことはツロとシドンの人々がヘロデの侍従に取り入って、熱心に和解を求めたことでも明らかです(20節)。

 本日の箇所には、その絶頂を極めたヘロデが、突然の最期を迎えたことが記されています。有名なヨセフス「古代誌」の記録内容によると、この皇帝を祝う祭典の中で、ヘロデは全部が銀でできた織物の衣裳をまとっていたということです。朝日の光がヘロデの衣にあたり、まばゆいばかりの光を放ち、その輝きに見とれる民衆は、王を神と呼び、なんとひれ伏して彼を礼拝をしました。主の御使いによる神のさばきは迅速になされました。王は突然激しい腹痛に襲われ、五日間苦しんだあと、54歳で死去しました。

 聖書は彼に神のさばきがくだった理由を、「神に栄光を帰さなかった」ためと記しています。天地の創造主である神を忘れ、造られた存在にすぎない被造物の人間を偶像化してしまう罪です。栄光を受けるにふさわしいお方は、唯一の神である主だけです。21世紀に生きる現代の私たちも「神に栄光を帰さず」、自らに栄光を帰してしまう危険性を持っているのではないでしょうか。日本であれば、それが経済の豊かさや、またそれを維持するためのいろいろなモノや組織等が、いつしか絶対化されてしまうとき、ヘロデの愚かさを繰り返していることになってしまいます。

− M.F.−


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